大学四年生。嫌だね。何が嫌ってさ、働くこと?いいや、それもあるけれど、生ぬるい環境とアイデンティティを認めてくれる「社会(井の中)」から出ること。大海なんてとっくに汚染されてるんだよな。少なくとも、小中高と結構コミュニケーション能力が怪しいから困ってる。
とはいえ、時間は迫っていくし、少なくともクソ親からの脱却は自立しかない。人間て一人で生きていくのにいくらかかるの?もう生活保護が目に見えている。まぁ、非常用のクラッカーと紙とペンあれば暇は潰せるから、「最低限の生活」はできそうだけど。そうはいっても風呂には入りたいし、そこそこ贅沢のうち?には育ってしまったから無理かもな。わからん。生ぬるい部屋でばっかそんなこと言ってるんだぜ。
さて本題。就活が迫っているので自己とお話し。お前はやりたいこととかないの?
ない。と言うよりは「諦め」すぎて、何をやりたいのかわかんなくなっちまった。でも、大方みんなそうじゃない?
幼稚園の時、ペットショップの店員になりたいと言っていた。当時から動物が好きで、と言ってもその辺にいるガキと同じようにそれ以上の深い理由はなく、毎日好きな動物と触れ合えるだろうと思っていた。多分動物園とかでもやかったのかな。トリーマーもいいなとか考えていた。そんな私(幼稚園児)に父は「知ってるか?ペットショップではな、売れなかった奴を殺すんだよ」と。さすがクソ親である。夢も微塵もない。嘘でも同意しとけよ、ガキなんだから。なんとなく、殺処分とか里親とかそういったことは子どもながらに知っていた。父がいない時間はもっぱら、テレビっ子だったので多分どっかの団体のCMでも見たのだろう。因みにだが、幼少期から父の「お前は馬鹿だな」が口癖のように浴びせられるので、自己肯定感の低さ英才教育である。そんなわけで、私の夢は子どもながらにして否定されるところから始まる。どちらにせよ、この辺りから動物アレルギーを発症し、自分でもその夢のことはなかったことになった。現在は、念願叶って家に愛らしい犬がおり、今も隣で寝息をかいている。これはこれでまた別に書こう。
小学校の頃、当時の図画工作の先生(結構お年を召していた)と出会い、強く美術に興味を持つ。熱心に取り組んでいた。探究心もあった。幸い、小学生は皆野蛮人が殆どなので、知恵がつくまではいじめられることもなかった。小五ぐらいの時に二分の一成人式と繋げて、「将来の夢」に関する粘土人形の制作があった。人形の粘土に、将来の自分を当てて作る。職業を必ず選ぶ必要があった。私はこの頃、先述の通り「図工の先生」と言うものに強い憧れを抱いていた。しかし、当時の私が作り上げたのは「保育士」であった。理由は簡単で、母親の家族一員で経営している幼稚園の方が確実だと勝手に思っていたからだ。自分自身で頭が弱いことを薄々気づき始めていた(後からわかることだが、当時は教員の壁が高く思っていた)。保育士になれば、母親の代も継げるし、就職に困らないだろうと。小学生にして現実を見ないでほしい。マセすぎだ。クソ父の脳みそは小学生の私で基本止まっているので、今もその作品は彼の部屋にあるが、それを見るたびにこのことを思い出す。
中学ではいじめとDVでまともに自分の将来など、少なくとも希望は見ていなかった。先のことを考えると憂鬱になるし、それよりもどうにかして、今、この苦痛を忘れられる術を探していた。小学生の頃から想像力と創作性だけは長けていたので相変わらずそれに値する趣味で時間を潰していた。家に残っても、父親の顔が怖いので、大人しく学校にだけは行っていた。将来とはいかなくても、この頃の転機と言えば、演劇との出会いだろうか。いじめやうつ病の治療にも同じことが言われているようだが、演劇には「他者に成り切る」力がある。これの凄いところはこれまでの苦痛で貧相な現実とは違い、豊かな人間、強い人間にその瞬間だけは変身できる。もちろん、暗記や団員とのコミュニケーションは必要だが、自分はどちらかといえば「喋りすぎる」方だったので、意思疎通は図れた。ただし、引き時を知らないのでクラスでは浮き、菌扱いやら落書きやら悪口etc……なんて漢字だった。不幸中の幸いといえば、劇部内に限って人権があったので、ほとんどの思い出はそれしかない。しかし、この憩いの場も、最後はあらぬ噂を流され、悪人扱いされるオチとなるが(故に以降は演劇から手を引いた)。死ぬ手段こそ取らなかったが、死について考え始めた。
高校では中学のことを考えて心機一転……わけもなく(馬鹿に素直なので)、少なくとも陽キャの前で変なこと言うのやめよ〜ぐらいには成長した。半分は美術特化クラスがある学校だったので、オタクとか同類には恵まれた。とは言っても謳歌するのはコロナに襲われた三年生ぐらいで、結局、KYイキリ陰キャはうっすら(友達数人を除き)全員から嫌われていた。教師とは割と仲良くやっていた。と思ってるだけで、キチ扱いされていたかもしれない(被害妄想)。父親のキチも相変わらずで、基本的には馬鹿にされていた。その上、本当に成績不良なので、この辺りから本格的な希死念慮が湧いていた。でもまぁ、全国の家庭はこうだろ。と思っていたが、徐々に友人との家族感で話のすれ違いが起こってくる。世の中の家庭には、家に帰って母親がリビングにいるらしい。びっくり。当然夢などなかった。絵は描いていたが、明らかに社会で通ずるものではないとわかっていた。そのままなぁなぁに時が進み、己の頭の悪さと鬱に毎晩うなされていた。遊び回っていたわけでもないし、ゲームに狂っていたわけでもない。むしろ、コンテンツに疎すぎて、周りの話にはついていけなかった。そう言うわけで頼みの綱の友人たちとも、マジで他愛のない会話以外できなかった。そして彼女らは彼女らにとって話しやすい人のところへ行く。まぁ、当たり前のことだけどね。最低限、認知してくれただけでも嬉しかった。
コロナに巻き込まれつつも、学校に行かなくてラッキーと思っていたのでその頃が一番まともにいれた。父親がいる時間は最悪だったが。趣味に没頭できた。気がつけば大学生になって、なんとなく、まだ高校生の気分だ。一年目は誰が誰だかわからないまま、SNSで勝手に仲良くなってる生徒たちに感心した。そうやって仲間を作るのね、今の時代って。二年生になってからはクラスが狭くなったので、人間関係も築きやすくなった。一対一でのコミュニケーションは、比較的まともだったので、寂しいことは減った。何より、この辺りの頃、数年は彼女と親しくしていたので寂しいもクソもないのだ。惚気。
現在は大学三年生の終わりとなる。冬が明けて、春になればもう四年だ。気が狂うね。しかし、このKYな私も、最近になって空気の押し測り能力を少し得る。黙ることの美徳。聞き手の重要さと言うやつか。
ついでに言うなら、この一年間はかなり良かった。何せ、イラストに、実写作品で役者を再開できたこともある。ただ、ブランクがあって、やはり素人だから学ばなきゃいけないことがたくさん出てきた。後は、映画による追体験の面白さだろうか。とにかく、映像作品が創作において強い力と、観客の手軽さにつながる。ただし、作るのは大掛かり。まぁ、何事もね。
ここまでつらつらと自分を思い返していたが。現実主義者、と言うより、自分で自分の夢を壊している?あるいは壊さなければいけないと思っている。叶えられない。私は馬鹿だから。そんなことの繰り返しである。
だが、幸いなことに、この大学生生活は(割と)精を出して取り組んだ。少なからず、嫌いな教科は少なかった。永遠に興味のある分野を研究していたい。
別のページに、もっとフランクなまとめをしておく。今日は自語りってことで。