権威と反権威について

tutai_k
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わたしは元々は国文学(日本国内の文学)を大学ではやっていて、卒業後は文学館に就職したこともあり、澁澤龍彦の話しかしていないようにみえて、なんとなく、地方文学、というものに関して、けっこう関心がある、し、ある程度の水準で思考できるのは、この分野なのかなあと思っている。水準、という言葉を使うと知性主義的な線に立ってしまうという危うさもあるけれど、投げかけられたものに対して、すくなくとも的外れな返事をしなくてすみそうだ、という自分のなかでの「安心感」がある、ということだ。

学部生を終えたとき、わたしはできれば大学院へ進みたかったが(就職したくなかった)経済的な事情から、進学はしなかった。通っていた大学の性質もあり、いまでは「(大学院の選択肢が「そこ」しか選択肢しかなかったので)しなくてよかった」と思っている。研究者として、というよりは自分の「疑問」を、自分のなかでどう折り合いを付けるか、という切実な興味から、地方文学については独学でやってきた。自分自身も、決して都市部で華々しく「書く」作家ではないという自覚もある。だから、周縁化された「文学」、「文学」からはじかれた「文学」を自分でも書き、そして読んできた。いまでは、自分がいる地域だけでなく、日本各地の、そして、世界のそれらの「文学」を読み、自分の持つ「問い」を問いつづけている。答えは出そうにない。きっと一生、出ないと思う。

そんな中で、今年のはじめに書肆侃々房から出た中村達さんの『私が諸島である カリブ海思想入門』という本を手に取った。これはしずかなインターネットだからいうことだが、わたしは「カリブ海の文学」とか、じつは一切読んだことがない。「archipelago(アーキペラゴ・群島)」なんて言葉は、ル・グウィンの『ゲド戦記』以外でお目にかかったことがない人間である。なんならグウィンの造語だとすら思っていた。それでなぜ、この本を読もうと思ったのか、と言うと、「わたしがカリブ海というものを知らなかったから」である。

知らなかった、というのは、本当に「無知」であったということだ。地理も得意じゃないので、実際カリブってどのあたりなの? とかも、わからない。想像もつかなかった。そして、「だから、読もう」とした。知らないということは、きっとそれは「主流」からは外されてしまっているものだろう、と思ったから。わたしは一般的なことでもよく知らない(最近まで大谷翔平を本当に知らずに生きてきて、「日本に生きてて安倍晋三を知らないのとおなじくらいヤバい」と言われたこともある・安倍が首相をしていたころの話であるが、あのころ、大谷翔平ってテレビとかSNSで話題になってた?)人間で、文学や社会のことも、「主流」として流通しているもののことをすこしばかり、見聞きしている、という程度の人間だ。

そういうとき、「知らない」は指標になる。「知らない/見たことない」、それは、認識からこぼれ落ちてしまっている「存在」であると言うことだから。

帯に、「なぜ、ハイデガーやラカンでなければならない?僕たちにだって思想や理論はあるんだ」とある。ハイデガーやラカンのことを知っているわけではないが、なんか西洋の人で有名な本を書いている人でしょ……と言うくらいにはわかる。その権威付けされたものからしか、読み解かれようとしていない「存在」のことが書かれている本、と思えば、それは切実に触れたいと思えるものだった。

西洋植民地主義に蹂躙され、その土地で芽吹き、葉を茂らせていた文化も歴史もことごとく破壊され、そしてまた、文化や歴史から暴力的を剥ぎ取られてしまったひとたちが生きることになった場所、島々。その土地に根ざさない異なるルーツや文化が暴力に混淆され、生まれた新しい文化は、いまも混じり合うことをつづけ、変容して「文学/思想」というかたちに結実していること。そしてその結実すら、いまだ変容をつづけていること……。西洋中心主義の、「西洋から読み解くカリブ」ではなく、カリブのなかから、カリブの言葉として「語られる」カリブ(「読み解く」という強引さを、私は常に警戒する)。とくにわたしがこの本で深く読み込んだのはカリビアン・フェミニズムとカリビアン・クィア・スタディーズの項で、こういった「文化/思想」の入門書として編まれるとき、認識の埒外におかれがちな部分に、「今」を見いだしているところだった。文化や思想・文学は、いまだ男性の領域だ、異性愛主義の領域だ。だが、たしかに女性やクィアは文化をつむぎ、思想に混じり合っているはずで。それらを現在進行形の「今」として、書いているところに夢中になった。

よい本に出会った、ここからカリブ海文学に触れていこう、と思っていた二月……『私が諸島である』の二つのトークイベントが開催されることを知った。どちらも日本の首都は東京で開催されていたが、オンライン(アーカイブ)試聴ができるという地方在住者にも機会を与えてくれている(与えてくれている!)ものだったので、申し込みをした。余談だが、都市部のイベントはもう少し、オンライン試聴というものを検討してくれたりはしないものなのだろうか。わたしはソシャゲが好きだったが、それはソシャゲが平等だからである。ソシャゲのイベントは、「東京」に行かなくても参加できる。どこにいても、おなじ時間におなじ期間開催されていて、地方民にも平等なのだ。おなじことは、Amazonにも言える……。搾取は時に、平等でもって人々の懐に入りこむ。その平等さは、搾取を問題視する人たちの特権よりも、やさしく/精神的な充足と利益をもたらしてくれることがある。あだしごとはさておき。

ひとつは代官山蔦屋書店でのイベント、もうひとつは、三鷹の独立系書店でのイベントだった。この時点でかなりはっきりと、「権威」「資本」の強弱がよく出ているなあと思っていたのだが、実際、内容を視聴してみると、その強弱はおそろしいほどにはっきりしてしまった。

蔦屋グループは文化人類学の権威今福龍太を呼び、今福龍太だけがしゃべりつづけた。『わたしが諸島である』のトークイベントじゃないんか! 今福龍太のクレオール講義を聴く場か? 博論の口頭試問なのか? なぜ中村達さんはこの居丈高な批判と評価を受けつづけないといけないのか……。「他者化」を強引にしていくまなざしから「読み解かれる」『私が諸島である』に、疲弊し、胃痛を感じ、十五分おきに動画を止め、四時間くらいかけて聞き終えた。いくらなんでも「フェミニズム」を軽視しすぎだろ…という呆れで最高潮に達した。「この作家はフェミニズムなんて枠に収まるものではない」なんてこの使い古された言い回しを使うものだよ。よく考えたらわたしは今福龍太の本を読むたびにイライラしていたのだった(『クレオール主義』と『ジェロニモたちの方舟』しか読んでないけど、読むたびに「あわねえなあ…あんまりにも「その場」の存在を埒外におきながら腑分けしてるなあ」と頭を抱えていた)。よく二時間耐えたと思う。いや、これはまじで。客の質疑応答も、今福龍太への質問…というところで、これは『私が諸島である』のトークイベントだよな?!とびっくりしてしまった。

そして翌々日か。個人書店でのイベントがあった。蔦屋でのイベントが『私が諸島である』の紹介すらせず、登壇者にいきなりしゃべらせるスタイルで始めたのと対照的に、店主による丁寧な書籍の紹介からはじまり、自己紹介……。中村達さんと話すのはサウダージ・ブックスの編集人アサノタカオさん。アサノさんは丁寧に、つねに聞き役にまわりながら、難しい専門用語や知られていない作家などの名前が出れば補足的に説明をし、真摯に読み込んできた『私が諸島である』から、読者としてさらに知りたかった部分/土地の空気を尋ね、これまで西洋目線で「読み解かれてきた」カリブ海文学とは一線を画す部分を取り上げてさらに理解を深められるような問いを重ねていく。知識がなかった状態で読んでいて足りなかった部分をひっぱりあげてくれるような言葉をいくつも聞くことができた。「カリブ海思想/文学」を他者化するのではなく、その内側から語られる言葉を真摯に聞き取ろうとする姿勢が、アサノさんからは感じられて、非常に好感をもって聞くことができた。時間が足りず、カリビアン・フェミニズム、カリビアン・クィア・スタディーズまでたどり着くことができなかったのだが、アサノさんがこれらの項目についてどんな問いを中村さんにしたのだろうというところは、とても気になるし、終盤で、カリブの女性作家をフェミニズムの観点から取り上げたひとたちがいた、ということを紹介してくれ、それが現在のくぼたのぞみさんらへ引き継がれている、という案内もしてくれて、「知らない」のその先への足がかりを、しっかりと作ってくれたと思う。

この対照的な二つのトークイベントを視聴し、わたしは権威というものについて、考えざるを得なかった。権威というものが「聞こうとしなかった」傍流の声と、権威の外からなされる真摯な問い。「わたしが上で、語る声を持つもの、あなたはわたしからのアドバイスを受けるべき存在です」という態度、その構造をつくる大資本の書店。「あなたの語りを、私は聞きたい」と真摯に問える人、新しいこと/ようやく語る場に立った存在の声をただ「聞く」ということができるひとを呼んだ個人書店。後者がたとえ、東京という特権的な土地で運営されている書店であったとしても、権威から降りた「対話」の場を用意できたということ、この時間が、権威の直後にもたれたということに、わたしは、権威に押しつぶされた痛みと傷に向かう営為を感じた。それがたとえ偶然であったとしても。

大資本の書店と個人書店の不均衡についても話したいと思っていたが、さすがに長すぎるのでこのあたりで。

個人書店で開催されたイベントの最後に、中村さんが「ヘーゲルは知っていますか? ぼくらはどうしてヘーゲルを知っているんでしょうか。ヘーゲルの言葉で会話を投げ、受け止めることができるのはなぜか」という問いを発した。わたしはそこに、ひとつの「応答」を感じた。わたしたちは、「権威」から離れた場所で語ること、そしてそれを聞くことを、(ときにそれを探し出してでも)つづけていかねばならない。