昨日は賃労働を休みにして、すこし遠くの山へ行ってきた。去年、クマに襲われたひとが出てから、売店には大量のクマベルが並び、山の中にはクマ注意を呼びかける看板がめちゃくちゃたてられていた。入り口には、去年までは「クマがいるかも」くらいのふんわりしたものが1コだけだったのに、三枚に増えていたし、ビジターセンターでも、クマが本気出してきたときにどうしたらいいかという対処法が図解で張られていた。ちなみに、地べたにうつ伏せに突っ伏して(バックパックは背負ったまま)、頭のところで手を組んで、頭を首を守る、というかたちだった。バックパックで背中とか内臓を守り、手でとりあえず、頭部と頸部を守れば、生存率が上がる……らしい。冷静にその態勢がとれるかどうか、というのがわからない。このあいだ、家の裏山でイノシシと出くわしたときは、もうなにも考えられなかった。とりあえず声を出しちゃいけないということと、急な動きをしないことで精一杯だった。クマ……こわい。
ちなみに、ビジターセンターには、森のガイドさんの自己紹介があったが、そのなかの一人のガイドさんが、「ホラ貝の音でクマも追い払います!」と書いてあった。ホラ貝!!!!!こんどから持っていくか……。
そんな感じでどきどきしながら鳥を探していたが、鳥を探すと言うことは基本的に、登山者のお守りであるところのクマベルをりんりん鳴らすわけにはいかず(鳥が逃げる)、でかい声で会話もできない。茂みでがさがさしていたら、鳥かも知れないから気配を殺す(そうしてこの間はイノシシが出てきたのだった。わたしが「キジかも!」と期待する裏山のガサガサ、隣の畑のじいさんかイノシシ、どちらかという結果しか出たことがないので、もしかしなくてもガサガサは期待とかせずに立ち去った方がいいのか?だいたい裏山のキジは、一目散に飛んで逃げる)。クマを避けるのに一番効果的なのは、「クマに人間がいる!」と気づいてもらうことらしいのだが、鳥を探すと言うことは、効果的な方法を採用できないということでもある。
でかい声で湘南の風の純恋歌を歌いながら歩いて行く若者たちや、「今日は○○山に来ましたあ!」と、自撮り棒でグループの動画を撮りながら山に入って行く配信屋さん?たちをめちゃくちゃうらやましく眺めながら鳥を探していた。こっちはまじで、そんなクマよけができないので。――とはいえ、湘南の風と自撮り棒のあいだに、コマドリを探していたっぽい男性がはさまっていたのには心底同情した。鳥、あの集団に挟まれてたら、藪の奥に逃げちゃうからね……。警戒しないのはミソサザイだけだよ……ミソサザイは、もうちょっと人間を警戒してくれ。なぜ人間と3メートルの距離でクソデカボイスでさえずるんだ。
そう、ミソサザイ、と言う鳥は、五百円玉くらいの大きさの小さな鳥だが、めちゃくちゃ声がでかい。どれくらい声がでかいかというと、鳥界の入間銃兎、って感じ。銃兎、ひとりだけラップとかでも、音量間違えたかな、ってくらい声でかいじゃん。ああいう感じなの。ふつう、五百円玉くらいの大きさの鳥は、チュルチュル……とかピーチチチ、みたいななんかこう、鳥に興味がなければ半径3メートルくらいのひとが聞き取れるかどうか、くらいの音量なのだが、ミソサザイは、なんていうか「どこにいても聞こえる」「鳥に興味がなくても、めちゃくちゃ遠くから聞こえる」ってかんじなのである。しかも節回しが複雑で、聞きなしをしらべたら「一ぴい、二とく、三ぴい、四なん、五ちいち、ぶんぷく、ちくりんちゃん」らしい。興味がある方は「ミソサザイ、さえずり」で調べてみてください。声でかいし、すごい節回しだし、すがたはちっちゃい。
そしてとにかくもう、森のどこででもそのミソサザイのクソデカボイスが流れているのである。いちおうこの山で見れたらうれしいなという鳥にコマドリがいるのだが、コマドリの鳴き声(これもかなり高く、音量の大きな声で、馬のいななきのように聞こえる。だから「コマ」鳥なわけだが)を上回る声である。それでもまだコマドリの声の音量は大きいので、「近い!」とか、「あっちから聞こえる!」とかわかるわけだが……
キクイタダキの声を聞き始めたときにはさすがに辟易した。キクイタダキというのはエナガくらい(つまり五百円玉サイズ)の小鳥なのだが、この鳴き声がまたささやかで小さいのである。やっと見つけたキクイタダキの鳴き声に集中しているときに、鳥界の入間銃兎は容赦なくリリックとかライムを披露してくれるわけである……勘弁してくれ……。
それでもまあ、その「さえずりの音量」とか、間近に人間がいても平然とお立ち台(ミソサザイは切り株の上とか、枝先とか、とにかくスポットライトを浴びるような「ステージ」的な場所が大好きだ)で歌いまくっている姿とかはおもしろいし、それが「自然」なのだから、こちらが苦情を言う筋合いはないし、ミソサザイの声の合間にキクイタダキの声を探すというゲーム性もあっておもしろい。
フト、「なんでミソサザイはいいんだ?」と思った。
このときわたしが考えたのは、ヒヨドリ、という鳥のことである。べつにこれはクマが出るような山に行かなくても会える身近な野鳥だ。鳩よりは小さいけれど、モズよりは大きい、小鳥というべきか、「鳥」と言うべきか悩ましいサイズ感なのだが……このヒヨドリ、バードウォッチャー……じゃなくても、めちゃくちゃ嫌われているのである。
理由?
声がでかいから。
声がでかい、と、あと、バードウォッチャーたちのあいだでは、「他の鳥の邪魔をする」というのもある…。というか、この「他の鳥の邪魔をする」というのは、別にバードウォッチャーじゃなくても、鳥に興味のないカメラ愛好家が、桜の時期だけ桜にやってくるメジロの写真を撮ってるときとかにも言う。「なんか名前知らないけどあの声のでかい鳥がくるとメジロがにげるから嫌い」みたいなことを言われたことがある。
バードウォッチャーという鳥にたいする解像度が高いひとびとはたしかに、ヒヨドリという鳥と珍鳥を秤にかけて、「珍鳥が逃げちゃう!」みたいなことを思うこともあるだろうが、鳥に対する解像度が高くないひとびとからみて、なんかよくわからん鳥をそんなに嫌わなくてもいいんじゃないか…? みたいな…。だって鳥じゃん……。桜にきてる鳥だから、ヒヨドリでもよくない……? メジロ……メジロはかわいいから…いい、のか…メジロ顔こわくない?
メジロの顔がこわいこわくないはわたしの感想だったとして、なんで世の中の人はこんなにヒヨドリに冷たいんだ、と思う。梨木香歩の「渡りの足跡」っていう本で、ヒヨドリはさんざんな書かれ方をしていた。漢字で書くと「鵯」なのだが、「いやしい鳥だからかなあ」みたいなことまで言われていた。ちなみに鳴き声が「ヒヨ」だから「卑(ヒ)」の文字があてられたそうです。
で、ミソサザイにもどってくるんだが、ミソサザイ、って、「特別きれいな鳥」というわけではないんだよね。茶色い。茶色いだけ。なんならヒヨドリのほうがデザイン性があって、色数も多い外見をしている……。
が、ミソサザイって、みんな大好きなんですよね。どれくらいかというと、キクイタダキの声が押しつぶされて聞こえなくなってキクイタダキが探せなくなっても、みんなミソサザイに夢中になって写真をとるくらい、ミソサザイは大人気。正直、ヒヨドリをきらうひとたちなら、ミソサザイのこともきらいになるんじゃないか、と思うのだが……。
わたしにはこの「ミソサザイ人気」がまったくわからない。
いや、ミソサザイ人気がわからない、のではない。鳥というのは、人気というもので価値がきまるものではない。ヒヨドリも、ミソサザイも、コマドリも、コウノトリも、鳥である。サンコウチョウだけが鳥ではない。
なので正確には、ヒヨドリの不人気がわからない、のである。
ひとはヒヨドリのことを「うるさい」と言って嫌う。だが、うるささならミソサザイだってそうだし(ミソサザイは出会う機会が少ないので、身近な例ならウグイスとかがいいかもしれない)、デザイン性でいうなら、それこそウグイスってデザイン……? と首をかしげるような見た目じゃないか。ヒヨドリは人間に例えるなら髪の毛は無造作ヘア的に決まっているし、ほっぺたには赤茶色の模様がある。翼をひろげれば、とてもうつくしい。ただヒヨヒヨ鳴いているだけであるが、ウグイスほど四六時中鳴いていないのである。
クソデカボイスでキクイタダキを探す邪魔をしても愛されているミソサザイの歌声を聞いていたら、なにがそんなに、ひとびとにヒヨドリへの「好きじゃない」感情を駆り立てるのかが、本気でわからなくなってしまったのだ。
人間は、勝手な想像や解釈を自然界にもちこむ。おそらくヒヨドリも、そのような解釈のすえ、好まれなくなったのだろうと思う。ヒヨドリが生息している人間の文化圏では、ヒヨドリという鳥のイメージは、「好ましくない」とされる文化なのだろうと思う。だが、わたしはヒヨドリが生息する文化圏に暮らしていながら、鳥に興味を持つ前も、ヒヨドリという鳥のことを、そんなにも嫌ったことがなかった。なんなら「鵯超え」とか言う言葉があるから、「ヒヨドリってどんな鳥なんだろう、見てみたいなあ」くらいに思っていた。
わたしたちはいったいどこから、「ヒヨドリってあんまり好きじゃない」という感覚を獲得するのか……それがすごく不思議でならないのである。
まあ、昨日一日山を歩き回って、ミソサザイのクソデカボイスのシャワーを浴びてきても、その答えは見えなかった。なんなら、「ヒヨドリよりミソサザイのほうが外見的には好まれなさそうなのに、なんで許されるんだろう」というあたらしい謎が生まれてしまったくらいである。
わたしの毎年の楽しみは、十月、伊良子岬へ渡って、ヒヨドリの渡りを見ることだ。たくさんの群が、いつきのハヤブサに襲われながら海をわたろうとする。何度も何度も沖へ出て、陸へ押し戻されて、森の中で深刻そうな、互いを励まし合うような無数の声を聞き、意を決してまるで海に飛び込むように飛び立つ。飛び立つときも、ヒヨドリたちはヒヨヒヨと切羽詰まった声で鳴いている。海を越えること、過酷な渡りを、それでも群でおこない、生存率を上げようとしていること。あの声を、騒々しい、とはわたしには言えない。一種の悲壮感ともいえる集団の声は、幾度聞いても胸を打つ。
だけど、そんな知識を得る前から、わたしはヒヨドリの鳴き声を、うるさいと思ったことがないのである。