これは温泉マークさんの「読めなかった感じでうたを作りたいんです #2』でできた『ぶんぶん紅女、鮟鱇都市をゆく』という歌からインスピレーションを得て出来上がった小説です。
海の底の街を知っている? と占地が聞いてきたので、知らないとぼくは答えた。ぼくは海の浅いところを漂うタイプのクラゲだ。水面から五十㎝、沈むのも難しい。そんなだから、占地と出会うことができたのだ。
占地は流木にしがみついていた。しがみついていた、って言うよりは生えていた。離島にカブトムシの分布はないが、クワガタの分布はあるんだぜ、と占地はやけに物知り顔だ。なんでも流木を食ってたら、そんな記憶が「譲渡」されたらしい。
占地は菌類だから、いろんなものを食べる。そしてその記憶を譲り受けることができるんだって。
流木の記憶。クワガタは木に卵を産むから海をわたる冒険ができて、カブトムシは土の中に卵を産むから冒険はできない。そんな記憶を流木から「譲渡」されたっていうから、じゃ、海の底の街のことも流木から譲渡された記憶かい? と聞いたら、それは違うんだって。
で、その街ってなんなんだよ、って聞いたら「海に漂ってるあんたなら知ってるかも、って思って聞いたんだけどなあ。やっぱりもっと深いところにいくやつに聞いたほうがいいのかなあ」とぼやいた。なんだこいつ、知らないんだ。それ以上のこと。
だけどぼくにも知ってることはある。「海の底の街って言うんなら、そこはきっと真っ暗だよ。水深二百メートルより向こうのことだと思う。そこより深いところには光がまったく届かない。さらにずっと潜っていくと、底がある。深海って言うんだって」
「へえ、深海」
海の底には光が届かないって知ったことは占地にはおどろきだったようだ。陸地のものたちは、光のない世界を想像しない。
「なんでその街のことを知りたいの?」
「なんでって、――おれに会いたいってやつがそこに突っこんでいったらしいんだよ」
「なに、あんたに会いたいやつって」
「赤い虫だよ。黒い斑点があって……そう、この木が流木になるまえ、クワガタの卵を産み付けられたりしながら、冬の山の中に転がっていたころ……流木のうらっかわで、春が来るのを待ってた。そのときに…赤い虫が……紅娘っていう虫らしい。普通は、群れでぎゅうぎゅうづめになって冬越しするらしいんだけど、そいつはひとりでさ。寒くて寒くて仕方がなくて、……木の隙間の深く深くへ、潜りこんできた。そこにはちょうどまだこの木にとりついたばっかりのおれがいて……その菌糸が温かいって言うんで、そこでなんとか冬を越したのさ」
「あんた、温かいの?」
「繊維の集合体には、保温効果がある」
繊維を持たない、ゼリー状の身体のぼくには、想像のつかない熱。ぼくらは海の温度が体温だ。そしてそれが暑いとか、冷たいとか、そんなことはあんまり気にしない。なぜなら、潮に流されるだけのぼくは、ほかの温度の潮流に乗り換えることができないから、この温度の潮しかしらない。
「冬が終わると、紅娘は出ていった。おれが子実体になったのは、それからしばらく経ってからだ。――そうこうしているうちに、雪解け水がこの木を海に押し流した。流れて流れて……そのあいだにおれは子実体化した」
「あんた、菌類なんだろ? 木が塩まみれになっても、生えられるの?」
「細かいことを気にするなよ。そういう設定なの、この話では」
「はいはい。この立て付けに無理があるもんね」
「メタな話はやめろ」
「はーい」
潮はぼくらを運んでいく。だけど、この潮流は、多分、占地が胞子を撒いて次世代を作れるような場所に、流木を運ばないだろう。なぜならぼくはずっとこの潮に運ばれているから、砂浜に座礁しなくてすんでいる。陸にはつかない潮流なのだ。
「なんでその紅娘があんたを探しているのを知ってるの? あんたが海に流されるまえに出て行ったんだろ?」
「このあいだ会ったクジラがさ、話してたから。ちっちゃいちっちゃい赤い、背中に黒い点々のある虫が、命を擲つくらいのスピードで、海面に突っこんでいったって」
「へえ……そうなんだ」
「そのクジラってさ、海水が海の底まで潜れるんだって」
「すごいね。――」
「好奇心で、追っていったらしいよ。ちっちゃな赤い虫を。――占地が海に旅に出たから、会いにいくんだって言ってたらしい」
「ばかだな、占地ってのはキノコだろ? キノコは海の底にはいないよ。クジラはゲラゲラ笑い転げて、だけど、赤い虫は知らんぷりしてぶんぶんぶんぶん、羽音をひびかせて潜っていく。海の底で、音がするのかって?」
「あ~、そこは突っこまない。ぼくらにとっての「音」と、陸の「音」は違うんだ。震動がぼくらにとっての音。だから、ぶんぶんぶんぶん、羽音はしていたはずだよ」
「そう。――そうか。……そうして、海の底あたりから、ぶんぶんぶんぶん、羽音と一緒にこんな声が聞こえてきたんだって。街だ、街だ、街がある! 占地はきっと、ここを目指していたにちがいない! って」
ざぶん、と大きな波が立った。なぁにこの程度、ぼくや流木を海の底に飲み込んでしまうような波じゃない。海の表面で、ざぶんざぶんと波はいつも遊んでいる。巻きこまれたとしても、水深五十㎝程度の深さまでしか、ぼくらは沈められない。
「で、そこであんたは紅娘を待ってたの?」
「――待ってなんかいないよ。どれだけそこに辿り着こうと思っても、流木は沈まないんだ。クジラみたいにね」
「そっか」
流木が、ぼくの笠にふれた。ちょっと硬いものが触れるだけでくずれることもあるぼくのからだだが、流木にぶつかるはずがない。海水は膜のように、ぼくと流木を隔てていた。
あ、と占地が言った。そして、次の瞬間、ぼくの体は、急に真っ暗闇に包まれた。触れたのは、流木じゃなかったのだ。なにか、たぶん、捕食者に食べられたんだろう。へえ、ここで終わりか、と思った。
だけど、食べるということは記憶を、そして意識を、譲渡することでもあるようだ。
魚の目をとおして、ぼくはどんどんどんどん、海の底へもぐってゆく。日の光はついに途切れて、真っ暗闇に。
そうして……そして。
ぼんやりと、明かりがともっている。四角い建物群が、光に照らされている。おかしいな、ここは、日の光が届かない海の底なんじゃないか。
目は慣れなかった。ただ、魚の記憶がぼくに告げていた。
これは鮟鱇都市。ちょうちん鮟鱇の光が照らす海底の都市。
ぶんぶん、ぶんぶん。音が聞こえた。
そして、それよりもずっとずっと遅れて、ぷかぷかと流木が漂う音が聞こえてきた。海の底には、いくつもの音が集まるが、海水は、うちで起こる振動を全身へ、拡散してしまう性分のもちぬしでもある。だから、いつかは海面へ、この音が到達する。
ぶんぶんぶんぶん、ぶんぶんぶんぶん。……。
この振動が海面に到達したとしても、震動を音として感知できない占地は、流木のうえで、ただ生えているんだろう。