物語と書物を疑う

tutai_k
·

いまの賃労働では、本を作る仕事をしている。十年ほど、同人誌で本を作ってきて、アンソロジーは2,3冊作って「わたしには向いていない」と気づいてずっと作っていないし、参加もやめていた。それが、あたらしい仕事で最初に作ったのはアンソロジーで……まあなんていうんだろう、わたしは、同人誌のアンソロジーでとんでもないことばかり起こっていたので、「あれ以上のことは起きないだろう」と思っていた。まあ、あれ以上のことは起きなかったわけだが、それなりにいろんなことがあった。あれ以上のことが、ビジネス・賃労働で起こっていたら、それはもうしかるべき対処しかなかったと思うし……。

最近は、「本を作ること」ということに、真剣に悩んでいる。

賃労働先は、リトルプレスとはいえ、商業的な出版物、一般書店に流通する本を作っている。

「書く」ということは特権的な行為で(だれもが日本語の文字を読み書きできるという状況にあるわけではない)、それをさらに「本にする(発表する)」ということは、もっともっと特権的だ。そして、その行為には、権威がくっついてくる。権威がくっついてくる、ということは、「権威によって認められねばならない」定型があるということだ。

アートや芸術、文学というのは、まるで自由を装って、「既存の概念を破壊してみろ」という挑発で創作者を駆り立てるが、ほんとうはそうではない。「理解できる(それは一部のものが持つ特権だ)表現」「鑑賞に値する(それは能力主義だ)表現」という「暗黙の了解」としての定型を踏まえたうえで、表現物をつくるという、一方的なルールがある。そして、そうでなければ、「受け取られることはない」という。

それは表現者のポジションである。技巧である。すでに確立された世間的な評価である。マジョリティからの承認でもある。(マイノリティの物語になると、トーンポリシングがつねに評価の中にあらわれるのはなぜだろう)

商業的な場では、そもそも聞く耳を持たれるために、表現を整えるということは確かにある。わたしも文章を書くので、それについてはよく知っているし、それを「して」作品を発表するのが技術だというのはわかっている。少なくとも私はすこしはその技術を「使いこなせている」という特権を持っている。

けれど、そうではない存在の語りは? いま、多くの語りは、「語る技術」をもつ者たちに所有されている。それが、「語る技術を持たない者」にはときどき「分配」があるけれど、そこには調整が入り、もしくは、「技術を持たない中でもある程度鑑賞に堪えうるもの」という選別が入る。

昨日、取り寄せていた「現代詩手帖5月号 特集:パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」が届いた。パレスチナの現代詩人たちの詩と解説と、略歴が書かれている。

ヌール・ヒンディさんの「技巧の講義はクソどうでもいい、私の仲間が死んでいる」という詩を読んだとき、この怒りをもういちど考え直した。

読み取られる形に整形しなければ、世界は語りを受け止めようとしないこと。

文学やアートは、当事者でない存在にも、「わが身に起こったことのように」その経験を伝える力を持つという(いわれている/聞いたことがある)。だが、そのように整理されたものでしか、わたしたちは、語りを受け止めることができないのか。

書物や、物語を愛する人間は、それらが絶対的な力を持つと思っている。語るときも、そしてまた、聞くときも。だが、その定型にはめられたものだけを、受け止めているだけでいいのか。定型にはめたものだけで、届けたつもりになっていいのか。

「語りを持たないまま」「語りを拾われないまま」いなくなってしまった存在があることを、この詩から受け取った。わたしは、選別された表現を受け取っている。そしてそれは、「そうでなければ」受け取られない前提があるからだ、と。

SNSを見ていると、ここに掲載されている詩人の中にも、現在進行形で殺害されてしまった方がいるようだ。そして、それは詩人だけではない。おおくの人が殺害されている。だがそれらは、語りを定型にできなかった(それはなにも「詩」や文学作品と限定せず、SNSなどの投稿でもそうだ。できる環境にある/検索に拾われる条件を整えられている、などいくつもの選別の先に、存在の「認識」があるので)者には、「死者数」でしか表現ができない状況なのだ。

物語や書物の力を疑う。疑って疑って疑って、「わたしにはそれしかないが」、否定形の「語り」(それは、「存在」というべきなのかも)を探し、受け止めねばならないと思う。人には名がある、数字ではないという詩も、このアンソロジーには収録されている。

受け止められているものを、わたしはつねに、疑っている。