母語で言うと「決定行動的那天就是好日子」。
なんとなく何も深く考えてなかったまま定期購読をし始めたあるイラストレーターのコラム、びっくりするほど内容がダークで泥臭くて最初は引いたが、じっくり読めば読むほど案外良い味が出てるし、世の中に溢れるほどある「ポジティブになってみよう」と呼びかける「※心靈雞湯」より、こう……世界のすべてを睨み続けて、ある程度の失望や諦観もあるが、決して受動的に運命を受け入れるだけでない「やや腰の低い礼儀正しい大人っぽいアヴェンジャークラス」のような雰囲気と言葉、独特な哲学に、自分は救われた部分はあるな、と。
もちろん普通の鶏湯にもめちゃくちゃ救われたけどね。でもどうやら私は食事スタイルといい性格といい、究極の「塩っぱい物を食べたら今度は甘い物が食べたい」タイプで、普通のポカポカで湯気が立つ鶏湯だけでなく、ドス黒くて紫色にテカるどろっどろな鶏湯(ちゃんと鶏湯だ)も同時摂取した方が効果が良い気がした。
前置き、途轍もなく長くなったね。
要するに、そのイラストレーターのコラムの今日のポストの一つは「自分の何かを(整理して)発信する習慣を身につける、それは自分の生きた軌跡を残す行為で、自分が受動的になりすぎた時でもこの習慣に引っ張られて歩き続けられる。受動的になりすぎて動けなくなることを回避できる、と自分なりに解釈した。
受動的になりすぎるとどうなるか、身をもって知ってるから……
なので書く。とりあえず思うがままに始めてみる。
※母語スラング、直訳すると『心のための鶏の漢方煮込みスープ』。人をポジティブにしようとするなり癒そうとするなりそういうコンテンツの総称。近年は「毒雞湯」という毒入りのタイプもあり、雞湯を摂取するのにかなり要注意。
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後から別のポストも更新されたけど、こうして何かを発信し続けたい人間の欲求についての話でとても気に入ってる。下の文章はポストの内容を数行で収められるよう私が読んで消化して再アウトプットしたやや私の解釈が入った物であしからず。
『ちょっと複雑だけど人間という動物の鳴き声みたいで、その鳴き声を聞いて互いの存在を認知してる。それ以上でもそれ以下でもない。そういうのが好きだ』と。『もちろん、最初から脳に入れる必要のない情報だ、どれも。でも好きだ。だから自分も「あの味」を再現したくてこれを書いてる』
いやー素敵だ。
確かにそう、なので私もようやくこれで「誰かに見られる前提で発信する行為なんてナルシストの極みで恥ずかしいわ!」というわけのわからん自分で自分自身にかけた足枷を外すことができる。そもそも自分といったらイラストを描いて人に見せてるクチだから、今更何を恥ずかしがる必要があるんだ?と、聞かれたような気がする。
また一つ足枷を外してもらったよね。感謝すべき何かがまた一つ増えた。
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結局何について「思い立ったが吉日」だ?
そりゃ……これだよこれ。この初めてのポスト。
それでは。