自分とAIしかいないゲームで十分なのかも

tuxedocat
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前々から思っていたけど、自分にとってマルチプレイゲームの良さは、能動的に変化する他のプレイヤーの存在によるリプレイ性の向上と、人間が操作することによるある程度広いスコープでの戦術や戦略性の実現しかないのかもしれない。だから、十分に機能するAIがいれば正直それでいいんじゃないか、という問いが生まれた。

知人友人らとプレイするのは別の面白さがあるが、同じゲームを同じようなタイミングで同じような熱量でプレイできることそれ自体が結構幸運なことで、実際合わせるのは難しい。そういう機会を前提としたゲームがこれだけたくさん存在して、人々がその理想的な体験を得られている様子自体が不思議だ。どれぐらいの割合の人たちが真に満足できているんだろうか。それはまた別の話として。

Ready or Notみたいに、高度なチーム連携を必要とするタスクを再現して遊ぶには、今のところ人間を呼んでくるほうが技術的には楽なんだろうという諦念。そういう視点だから、ゲームを一緒に遊べるようなAI(きっと近いうちに実際機能するだろう)がいれば自分はことが足りる。特に、そういうタスク解決系と真逆のFree for Allなアリーナシューターばかりやっていた自分にとっては。

でも人々はそうは思わないということを知っている。というかこれは諸々のコミュニケーション事故のリスクを過大評価しがちな自分が抱えるバイアスに起因する考えなんだと思う。技術的側面は正しいと思いつつ、マルチプレイゲームがそうなることはないんだろうなとわかっている。

ゲームを取り巻く環境のほうから考えたほうが、AIばかりの世界にならない理由を想像しやすい。現状のライブサービス的な経済圏だと、生身の人間同士でプレイして、かつスキルだけじゃなくて人気や認知度などのゲーム外の特性についても極端にいびつな分布になっている状態が望ましいはず。メタゲームをやったり、外見上のアイテム課金だったり、人間がいないと回らない部分が多い。ゲームAIに関する面白い研究が日々出ているけど従来からあるタイプのゲームでそれが実現されることは、そういう理由から難しいのだろう。なんなら、人間がやることを前提としすぎるあまり、一時期のシングルプレイゲームよりNPCの挙動が雑になったとさえ思えるときがあるし。

ペアプログラミング賛美に対して、機能的な側面ではそれはCopilotとのセッションで十分可能だし、ドメイン知識や設計に関する議論から実装までを共有する情報伝達の側面以外ではむしろそういう非人間的な相手とやるほうが全然いいでしょと反論したくなるのと同じ感覚なのかもしれない。

良い方向にとらえるなら、やっと互いに無理して人間と関わらなくてもよくなる技術ができてきたということ。ただプログラミングですら人間を要する信仰は強いだろうし、遊びについてはもっとその側面が強いんだろうなと思うゆえ、そういう未来がやってくることにも懐疑的にならざるを得ない。

@tuxedocat
undercat diary: 猫たちとの暮らし、擬態する社会性、京都の街。