赤子は生まれてしばらく目が見えてないのだそうだ。兎にも角にも人間というものはネオテニーという言葉があるほどには未成熟なままにこの世に出てきてしまうようだ。
見えているようで見えていない。
聞こえているようで聞こえていない。
味わっているようで味わえていない。
五感のすべてが実は穴が開いているだけで何ひとつちゃんとしてないのだ、ということに40歳を超えてようやく気づいた。
そうして僕は五感に頼るのをやめて、心静かに、むしろ内なる声に。いやむしろその空間に帯電している空気に思い切り身を任せて流れてみることにした。どうせわからないのだ。えい、ままよ。
そうして身を投げ出した途端に、ふわりと時間がゆっくり。むしろ止まったかのようにスローモーションになった。夏の日。あのプールの底から水面を眺めていた。ゆっくりときらめくのは青空なのか、水なのか。その境界が溶けて混じり合って、光っている。その光景が頭をよぎった。
身を投げ出した次の瞬間、心地よく受け止められていた。何もないと思っていた空間は、満ちていた。
そして自分は光が見えるようになった。粒子でもなく、波でもなく。質量もない。世界で最も速い存在を捕まえることができるようになった。
カメラという機械。シャッターという構造を身体の一部にして、ようやく自分の目は見えるようになったようだ。
撮ること。現像することが楽しくて仕方ない。そんな20年目の一年だった。