昨今、私の周囲ではモキュメンタリーホラーの話題や実話怪談の「実話」性とは何か、といった議論が盛んに行われている。私は実話怪談の括りの中で活動はしているが、映像含むホラー作品全般には明るくない。が、日々様々なニュースや議論が飛び交っているので、備忘録がてら日記に書く。
怪談における実話と創作の許容範囲や表現を探る際に、「フェイク」ドキュメンタリーが受容されているのならフェイク実話怪談・嘘怪談も成立するのではないか?といった思考実験じみた意見がある。しかしこれに対してはピンとこなかった。怪談=誰かの体験した出来事(体験者が実在の人物であり、その人あるいは周辺の人物から聞けた話であれば、これを以て実話と見なす定義が妥当と思われる)という体裁で構築された話とモキュメンタリー=フィクションとして作られた形式としてのドキュメンタリーは、いずれも流行し広く楽しまれている恐怖コンテンツであり、我々の現実と生活に侵食してくる作用はあるものの、二者は並列も置換もしがたい形態なのではないか、という感覚がある。
体験者から取材した、という前提で以て扱われる実話怪談の本質はナラティブにある。怪談体験者自身の語り、それを取材した人物Aが発表する語り、Aの話を聞いたBがCへ話す語り……と伝播し時には形を変えていくこと、また取材する行為もまた怪談の体験に含まれる、という定義を吉田悠軌氏が書籍等で論じている(詳細はあたってください)。怪談を執筆するにしても同様で、体験者から語られたこと、またその取材体験をどう読み物の言葉に落とし込むかで試行錯誤しているし、私は怪異という名状しがたい現象と体験を、その人固有のボキャブラリーで言語化されることに魅力を感じている。怪談は言葉じゃないものを言葉にする営みで、怪談は怪奇現象そのもので組成されているわけではなく、人々の言葉から生まれてくるのでは?と思ってしまう。
目の前で発され繰り広げられる語りというナラティブはここに「在る」現実という意味でリアルだが、そのときに語られた怪談そのもの、また受け手が怪談にどう恐怖したのかは固有のもの、と捉えられる。一個人によって言語化された怪談と、聞き手が受容した怪談は完全に同じ事物ではないが、「怪談」という形をとったその話に内包され価値を置かれるが、個々の受容者によって可変する恐怖というものは、不可変に在るリアルではないが、現実「性」という意味でのリアリティではないか。語りというメディアによって伝播し、恐怖というリアリティが備わった怪談に触れるということは、それ自体に終わりのない広がりがある。歴史や伝承に纏わる怪談を「現在まで地続き」と具体的に思いを馳せることよりも、今ここで・またいつか・もしくは永遠にないかもしれない話が語られている、という事象そのものに、私は世界とのつながりを感じる。
怪談を通して恐怖の娯楽を得るときに、「まあ極論、ひとから聞いたナマの話って面白いからさぁ……」の境地にいってしまいがちなのだが、それが怪談のいかがわしさ・猥雑さであり、そのときに浮かべる下卑た微笑みを、たまに鏡を見ながら我に返る。(これ以外にも怪談への下卑な態度は色々あるが、一例として……)
いっぽう、モキュメンタリー即ち「フェイク」なドキュメンタリーの娯楽性を突き詰めると、実話怪談と同様の「語り合う」ナラティブ性はあるものの、それは「提示されたドキュメントをみんなで考察する」「感想を言い合う」といったファンダム・観客側の反応と受容行動に特化している。考察・読解する過程で作り手側が受け手に能動的なアクションを誘導している場合もあるが、それは作り手による意図的なもので、このドキュメントに触れて調べて見てくださいね、というアトラクションとして提示されていることに揺るぎがない。要するに、「作品」と「客」という隔たりのある二者である。そしてあくまでもフィクションであるという目配せはゲーム的で、作品と客の共犯関係が結ばれている。梨さんは出自ジャンルのSCP財団を「ごっこ遊び」と称していたが、その文脈上にあるモキュメンタリーホラーに対しても言い得て妙な表現だと思う。
そしてもう一つ、モキュメンタリー表現に対して感じるのはメディアそのものへのフェティシズムがある。インターネット掲示板の書き込みにおける構文、一枚のありきたりな集合写真、粗い画像、新聞記事、等々、モキュメンタリーが用いるドキュメント(記録)は、ドキュメントの様式美が徹底しているほど面白くなり、またそれらは真実という名の恐怖対象へ繋がるパスでありながら、それ自体が恐怖を喚起させる素材である。
モキュメンタリーは恐怖の対象そのものー真実に付随する死や暴力や化け物を主眼に置いていない、というよりも対象(真実)と手段(ドキュメント)の恐怖強度が反転している点に魅力があるのではないか。だからモキュメンタリー作品の多くは、謎という考察の余白をあえて残しているのではないか。多くの作品に触れているわけではないが、そういった印象を強く受ける。
話の過程で明かされた陰惨で残酷な事件なり、とんでもない化け物や呪いなり、謎解きの先にある恐怖対象はどんなに酷い内容であってもそれは自分自身で経験していないフィクション故、受け手にとってはあくまで「自分の身に起きたら嫌」な他人事だ。恐怖をインフレさせようとしても、受け手の想像力と共感力に頼るアプローチには限界がある。(貞子がテレビから出てくるという現実への侵食を描いても、観客の観ているモニターから貞子を這い出させることはできないのだから。)しかし恐怖対象に匹敵する経験に共感することはできなくとも、むしろその経験がほぼ全ての人間には備わっていないからこそ、そこに接続される情報それ自体、あるいはそういった情報を目にする機会に用いられるメディア、という大衆にとっての経験認知の記憶に対して、我々はより直接的に恐怖を感じることができる、という発見がモキュメンタリーの発端では?……と既に言及されていそうなことを考えた。
今ここに提示されているドキュメント(記録)というリアルな事物を用いて恐怖させられるか?がモキュメンタリーの試行錯誤であれば、ドキュメントの様式美の徹底はフェティシズムの域だと思う。いわば恐怖そのものがドキュメントという様式に憑依している状態だ。おかげで我々は今、怪文書だの掲示板の書き込みだの、ミームを理解しているメディアに対して直接的に興奮できる域に達してしまった(気がする)。恐怖の放つフェロモンをドキュメントへ漬け込んで、その移り香を大量に嗅がせてトリップさせる、というような手口なのだけど、これって直接的なエロよりも下着がいい!下着を嗅ぐのが一番の性癖なんです!みたいな倒錯の有り様と同じ状況に恐怖の「ヘキ」が歪まされてしまっているのでは……?残り香から与えられる恐怖感情はストゼロのように直接脳に響く。モキュメンタリーに見出せるのは、怪談的な変化可能な恐怖の「リアリティ」ではない。巧妙なフェイクが与えてくる見分けのつかない恐怖と、コンテンツを共有する客同士が共犯関係で語り合う「リアル」だ。
ところで、「行方不明展」が発表されると同時に賛否両論の状況になっている。
批判点としては「行方不明者」という、拉致被害を含め過去の事件事例の当事者・被害者が当然ながら存在する事柄をネーミングし、興行として収益を上げることが挙げられている。(反応の中には「実際の行方不明者を扱って捜索に協力しろ」「文句言って良いのは知り合いに行方不明者がいるヤツだけ」等の意見も散見されるけど、これは「選挙候補者や政策が不満ならお前が立候補しろ」と同じレベルの議論なのでスルーします。)
それはそう、なのだけど、行方不明展というボキャブラリーが持っている(おそらく怪談で不謹慎と批判される時とは違う種類の)直接的な暴力性って何なのだろう。「行方不明者」という、過去の悲痛な、そして恐怖に結び付く事件事例を起点にしたモキュメンタリー的着想は、それを嗜好できる側との共犯関係が土台にあり、また展示物のドキュメント類を食いいるように観察できるフフェティシズムを培っていなければ、おそらく展示は面白く体験できない。が、それゆえにあっさりここにきて炎上してしまったのかもしれない。モキュメンタリーが流行して大衆化しているとはいえ、モキュメンタリーの磁場が作り出した、(SNSのバズり的な)不謹慎な情報を共有してみんなで考察しよう、みたいなニッチさと大衆性のねじれた共存が成立していたファンの受容は大衆化とは言えなかったのでは?とも思うし、残留し証拠となるドキュメントが様式として「リアル」ゆえに、「経験」を持つ人にとっては直接的な情報として害されるものになりうる。
展示内容について情報を探ったが、公式サイトでは言及されておらず
"会場では、貼り紙、遺留品、都市伝説など、様々な行方不明にまつわる物品や情報を集め、分類して展示する。 展示は4つのルートに分かれており、人の行方不明である「身元不明」、場所の行方不明である「所在不明」、ものの行方不明である「出所不明」、記憶の行方不明である「真偽不明」が、それぞれテーマになっている。" ※Yahoo!ニュース記事より引用
展示構成の情報はニュース記事にて確認できたが、作り手側としては展示タイトルに「行方不明」以外に相応しいボキャブラリーを見つけられなかったのだろうとも思う。あくまでひとつの想像だが、「失せ物」等の、人物だけでなく場所やモノや記憶に漠然とした「行方不明=missing」という概念を与え、残存する事物によって実在のありさまを想像させる、というコンセプチュアルなインスタレーションを志向している可能性はある。仮にそうだとしたら、話題性や収益を狙った興行ではなく、あくまでインスタレーション展示として「実在」「非実在」のはざまを問うようなストイックさがあれば、個人的に展示内容にグッときて評価する……かもしれない。
個人的には、ボキャブラリーのコンテクストよりも、「何を客にやらせる予定なのか」の方が気がかりではある。私が今までモキュメンタリー作品で最も厭らしい体験をさせられたのは『忌録』の若い女性のブログの体裁をとった「綾のーと。」で、謎解きのために鍵付き日記のパスワードを考察する羽目になり、でもこのパス解除ってブログに出てくるネトストと同じ行動取らされてるじゃん!と、作品の消費と加害行動が同一であると気付かされたことである(これは誉め言葉)。今回の展示は、現代美術ではなくあくまでお化け屋敷形式のエンターテイメントで、入場料を払い、客はホラー作品を消費する。どういう行動で我々は消費をさせられるのか。モキュメンタリーはつまるところ、観客参加型であっても、作り手と客は分け隔てられている。客の行動は作り手によって意図されていて、客が何を行おうが、フィクションであるという共犯関係でプレイするしかない。私はごっこ遊びの目配せが苦手である。娯楽の枠組みの中で、加害性の追体験を器用にやれる自信はない。この娯楽としてのホラーが茶番とフェチで成立するのだとしたら、つくづく日本的な娯楽に進化したんだなー、とため息をついてしまう。