先日、イメージフォーラムで久しぶりに映画2本をぶっ続けで観た。
どちらも実写+アートアニメ(的技法と言えばいいのかな)混在で、特に先日から公開されたばかりのハイパーボリア人は楽しみにしていたし、アートアニメこそ劇場で観たいでしょ。イメージフォーラムはシュヴァンクマイエルやクエイ兄弟を毎回上映していたし特別プログラムを組んでいたので学生時代にはお世話になったけど、オオカミの家までここ最近はアートアニメって全然流行ってなかったんじゃ?この系統の作品を観る機会がなくて、その分『オオカミの家』観たときには良さが身に沁みた。あと、夏にはクエイ兄弟新作で『砂時計サナトリウム』公開だってさ!やったね!
『ストップモーション』はゴリゴリにサイコホラーで、私が苦手な身体が痛い目にあう描写がてんこ盛りで勘弁してくれよ!画面見れない!というのと、ストップモーションアニメって怖くて気持ち悪いよねという偏見はあっていいものなのか?と考えたりしたが、なぜそれらの表現はつねに「気持ち悪さ」が付き纏うのか、ということも考えた。
話の筋はわかりやすい。精神分析的な話である。ネタバレすると、母親(有名なストップモーションアニメ監督)の助手をつとめる娘(主人公)は、彼女らが扱う人形のごとく、母親から支配抑制され、主体性を獲得できていない。母親の死によって抑圧から解放されるかと思いきや、主体性のない主人公は自作を作りたいと思っても作ることができない。そこで彼女のインナーチャイルドが現れて創作のシナリオを指示し、より暴力的で倫理的に戸惑う手段を提案し、彼女にそそのかされる形で実行に移していく。その過程で彼女の作品である人形たちが動き出す妄想に取り憑かれ、シナリオと呼応するかのように人形が彼女を襲う。最終的には、療養を勧めてくる彼氏たちを殺し、妄想の中で主人公は自分の顔を失い、自ら棺に入る。人形・作品という自分の分身、インナーチャイルドという妄想の虚が精神を蝕み、この映画での人形アニメは内なる自己の形を取り、そちらが勝利する。
似ている作品として、(私が上京してすぐ、初めて見た映画なので愛着があり、こちらもイメージフォーラムで公開されていた)『MAY』があり、こちらは内気な主人公がお気に入りの人形を失ったことをきっかけに、友達がいなくなったから作れば良いと周囲の人間を殺して好きなパーツを組み合わせて一体の人形を完成させる話(ちなみに主人公はMAYなので人形はアナグラムのAMYと名付けられた)。こちらの主演はアンジェラ・ベティスだが、『ストップモーション』主人公を演じたアシュリン・フランチオージと、顔立ちも雰囲気もよく似ている。私がひじょうに好きな顔(こういう顔の人形を作りたいと常々思っている)で、内向的性格、神経質さ、狂気が表情に滲み出たときのある種の美しさなんかを求めると、この系統の俳優がぴったりということなんだろうと思う。
ここでは、アニメは虚として扱われる。この虚は、実を侵食し、実よりも上位のものとして君臨する。精神の、暴かれてはならない暗い内側の領域を扱っているから、人形たちはグロテスクで生々しくて不気味だ。
この種のアートアニメが纏う、食欲を減退させるような暗さが当たり前であるのは何なんだろうと思うと、それはもうひとつの現実であり、扱いそこねた「虚」、隠されねばならぬもうひとつの「実」であり、したがって実における整合性や理論を伴ってはおらず、つねに不気味でなければいけない。それが見目良く心地よいものであるのなら、麻薬を勧めることと変わらない。不気味であることが誠実だとさえ思う。
『ハイパーボリア人』は、メタだらけの構造や盛り込まれた政治と歴史諸々は解説なんかで触れられているので割愛するけど、めちゃくちゃ面白い。さまざまな手法を用いて虚実混同し一体となっていく面白さ、こちらの創作意欲を刺激してきてDIY精神万歳!という感じで、ミシェル・ゴンドリーを見たときの楽しさとかに近い。おふざけや遊び心があるけれど、ちゃんとそういうものを手間かけて作るというのも好きだし、そういった戯れを全面に出しつつもチリの歴史と政治という大きなものを無関心に拒絶しておらず、ちんけな陰謀論(的なもの)とちんけに対峙したときに生じる接点の「ナニコレ」感、虚ー実の二項対立の次元を何段階も上げていくパワーがあった。私たちの社会が現在対峙している陰謀論なり、分断や差別を先導する政治家の類の、自分たちに都合の良いストーリーの「虚」は、歴史が積み重ねてきた経験と知によって否定せねばならぬ、という真面目さがなければ対処できないし、実際それを試みても情勢の悪化は止まらんよ、毎秒誰かが加害され殺され死んでるよ、という苦しみがあるけれど、「虚」とははたして何なんだ、という視点から虚ー実に切り込む試みは、特にものを作り書く人間にとっては重要なのではないか、みたいなことも考えつつ、たまたま読書会の課題図書になっていて先日読み始めたばかりのリカルド・ピグリア『人工呼吸』もかなりハイパーボリア人に近いのではないか(こちらはアルゼンチンの歴史における「虚」が立ちあらわれていくらしい)、という構造なので、こちらもちゃんと読んでいこうと思った。
「私たちはプロセスについての作品を作りたい。私たちは、正確で、管理され、定義されたものとは対照的に、有機的で、偶発的で、不安定で、未完成で、常に成長し続けるものを受け入れ、その骨格を示すような作品に興味がある。」--映画パンフレットの監督の声明より
この言葉には感銘を受けた。プロセスについての作品、という概念は自分の中に持ち帰って温めたいな、と思った。
監督が二人組のユニットで、作品が個人に帰結する形を取らずプロジェクトとして成立し、複数の手段を織り交ぜ混在させている、総合的だけど統合したそれが混沌としているさま、混沌を混沌のまま受容させる、というスタンスは見習ったほうがいい。