配信を見つけ2話まで観て、さっきドラマ情報を調べたらネタバレを踏んじゃった。昭和のおっさんマーニーじゃんこれ。
2話目で、阿部サダヲ演じる市郎が昭和10年10月16日生まれ(86年時点で51歳、24年では88歳)と判明して、はて昭和10年生まれって誰がいるんだろうとWikipediaの1935年を調べたら、へぇ〜……ぉおお!となった。誰がいるかちょっと調べて欲しい。ちなみに市郎と1日違いの10月15日に蜷川幸雄が生まれている(1935年生まれとなると、10歳で終戦を迎えているのね…)。クドカンと阿部サダヲはともに1970年生まれで1986年当時は中3だから、市郎と純子の親子関係や生活をとりまく景色は、彼らの年代にとってのノスタルジーそのものだろう。私は1986年3月生まれなので、自分が生まれた頃ってこんな感じなのか〜、と当時の流行やスラングを聞きながら観ている。
それにしても、昭和は長い。63年もある。
コンプラがゆるくて大らかな昭和VS多様性が謳われてるけどコンプラが厳しくなって窮屈だよね〜な令和(この認知と設定自体にツッコミを入れたくはあるが)の二項対立と世代間格差を描いたコメディ、と認識できるドラマだけど、果たしてノスタルジーな過去=昭和を「昭和」として一括りにして良いのか。私は61年昭和末生まれだが昭和の記憶はほぼない。30歳離れた母は30年生まれで団塊より下、それより25歳上の祖母は5年生まれで戦争と貧困を経験している。昭和に三代くらいが平気で収まる。当たり前の話だが、同じ昭和でも戦争経験した世代と高度経済成長を体感した世代と平成育ちはだいぶ見えている世界が違う。(もちろん、その世代特有の共有体験を、世代に属している全ての人に当てはめる事もできない)
70年生まれの50代阿部サダヲが演じるのは86年の51歳で、おそらく彼やクドカンの頭の中には当時の親や教師の記憶があり、そこから役作りしていると思うけど、時代を隔てたマナーやテクノロジーの差異を抜きにしたときに発生する「38年差」はどこにあるのだろう。ドラマが昭和と一口に括っているので、そこがまだ見えない。38年間の50代のダイナミズムをもっと体現して欲しい。