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9/20,21,22,23

uchili0315
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公開:2026/9/24
ソファで横に立つうろん

9/20

教室前に、ちいかわ映画の2回目を観る。ミリしらではなくすっかりキャラクターに愛着ある状態で観ると、OPのくつずれの時点で涙が出てくる。満席で、子どもが多い回だった。初見じゃない観客が大半だろうと思う。そのせいなのか、展開に沿って客のムードとして自然に笑いが起きる。島二郎の店を開けたシーンの初登場の瞬間と、昆布じめでイーヤーダーをやっていたらセイレーンがじっと見ているところの間が一番笑いが起きた。ミニシアターとかどマイナー作品を観るときにはこういうことが起きないし、満席に近くても大半が初見だと笑い箇所が定まらずにいるので客席の空気感というのものが生まれない。演劇やライブじゃなくて映画館で生まれる笑いとかのリアクションの発生条件はこのあたりなのかな、と思う。あと、小学生くらいの子が左の方の席にいて、ひそひそと「ひどい!」とか「わかったって…もしかしてこういうこと!?」と隣にいるであろう親御さんに対して話していてよかった。そしてひみつ本、よくよく考えたら劇場用の尺の、起承転結と緩急ある纏まったストーリーというもの、ちいかわでは(というかナガノ先生っ作品では)初なんだよな…それをこうやって編み出していたんだ…という驚きがある。台詞においては引き算されているし、説明的な要素はとことん省いている。ほええ。

上映後に久しぶりに吉祥寺の店を覗くが古着は高い。今はこんなもんだろう。教室で、ナンをカレーにつけて食べながら、なぜか話題がハエトリクモになっていて、龍さんが「一番怖いのはフクロムシ」と言っていた。フクロムシ、蟹に寄生して全身を意のままに操る、みたいなことらしく、教室に来ていたやよいちゃんが「魂のっとり虫」と呼んでいて、よかった。(ちなみに今調べたら蟹の生殖機能を奪いつつ養分吸い上げて繁殖するらしい)アールデコのリブート展示か教室展にあわせてブドワール人形の改良版をつくろうと思い顔をいじったが、フランス人形の顔ベースの型からアレンジするはずが、鼻を伸ばして比率を変えてしまったせいでデフォルメが崩れ、全然だめになった。明日最初からやりなおそうと思う。DMは到着していたので安心。

9/21

ビアガーデンは中止、昨夜も帰りは雨がすごくてずぶ濡れになったけど、一日中雨だな。ちいかわ同人誌に向けて原作を読み込みつつ、ふと読み返したくなったトーベ・ヤンソンの「誠実な詐欺師」を久しぶりに読んでみたが、たぶん今これは登場人物がASDみたいなラベル張りで人間関係雑語りに落とし込まれそうな話である。ともあれ、この作品にはすべての人間嫌いに贈りたくなる一節がある。

お金は臭うと人はいう。それは嘘だ。お金は数字と同じようにきれいだ。臭うのは人間のほうで、だれもがそれぞれ隠された臭いをもっている。いやな臭い。怒ったり、恥じたり、怖がったりするとき、臭いは強くなる。犬はそれを感じとる。瞬間的にわかるのだ。わたしが犬だったら、わかりすぎていやになるだろう。でもマッツには臭いがない。あの子は雪のようにきれいだ。わたしの犬は大きくて美しく、わたしに服従する。あの犬はわたしが好きじゃない。でも、わたしと犬は互いを尊重する。わたしは秘密めいた犬の生活、本来の野性をいくらかはとどめている大きな犬の秘密を尊重する。だからといって信頼はしない。自分をじっと観察する大きな犬をどうして信頼できよう。人びとは〈人間みたいな〉特質を犬に押しつける。気高さとか愛想のよさとかいったものを。犬は口をきかず、人間にしたがう。でも、わたしたち人間をじっくりと観察して知りつくし、わたしたちのみじめさを嗅ぎつけてしまった。それなのにあいかわらず人間につきしたがう。この信じがたい事実をまのあたりにして、驚き、感じいり、うちのめされるべきなのだ。わたしたちを軽蔑しているのか。赦してくれているのか。それとも、責任をひきうけずにいるのが性にあうのか。わたしたちは知りえない。わたしたち人間を、巨大で鈍重な黄金虫みたいに、図体だけ大きくてぶざまな動物の一種だと思っているのか。人間が神だなんてとんでもない。人間のことなどお見通しで、千年つづいた人間への従順で抑えこまれても、あの恐るべき洞察力を失わずにいる。どうしてだれも自分の犬を怖がらないのか。野生だった動物が自分の野性をいつまで拒んでいられるものなのか。だれもが自分の飼い犬を理想化する。そのくせ犬の自然な生を軽蔑する。からだの蚤を掻いたり、腐った骨を埋めたり、ごみ溜めのなかを転がったり、うつろな樹にむかって夜じゅう吼えたてたり……。だけど、あの人たち自身はどうだというのか。どのみち腐るものをこっそり埋めては、また掘りだし、それからまた埋めなおす。うつろな樹の下で騒ぎたてる。あの人たちが転がりまわる場所ときたら……、ああ、いやだ。わたしとわたしの犬はあの人たちを軽蔑する。わたしと犬は共有しあう秘密の生のなかに匿われ、うちに秘めた野性のなかに隠されている……。

9/22

連れが朝方に盛大に足をつっていて、ふくらはぎに湿布を貼っている。ぐぎゃーと叫んでいたらしいけど、ソファ寝していたうろんと私は知るよしもない。歩き回るのはしんどいらしいけど、連休中に一本くらい映画を観ることにする。バックルームスにする。客席は8割がた埋まっていた。賛否両論?な感想という印象だったけど、私はおもしろく観た。ニトリとイケアに席巻される前の90年代、ああいうロードサイドの家具店ってあったよな。今もインテルナかわはたという店は近くにあって同じような雰囲気あるけど。家具店というチョイス自体がリミナルスペースだな、と思いきや、投稿された元祖バックルームス画像は家具店の居抜き内装工事中の写真だったので、元ネタに忠実なアプローチでは。最初と最後の探索動画がこのネタ本来の旨みなんだろうが、私はそこにあまりフェチを感じておらず、きちんと映画に仕上がっていたのがむしろ良かった。バックルームスという何処でもないリミナルスペースを扱いつつも、それが現実の投影でありちぐはぐな模倣のようでいて、しかし同時に「そのもの」を立ち上がらせている。家のイデアを主人公たちが求める話になっていて、これは純然たる「家」映画だな。家を追求した話としてしっくりくる。あと、漫画のホムンクルスとかあの辺、昔の精神薬のパッケージを思い出す。内的宇宙。

観終わった後、フードコートで晩飯を食べた後にたこ焼きを持ち帰る気でいたが腹一杯だった。しかし帰り道のスーパーに立ち寄ったら、店の前には焼き鳥屋台が出ている。モクモクの煙からかぐわしい、煙と鶏が焼かれる香りが……これはだめだ、と連れと顔を見合わせて、買って帰る。ときめきや喜びを感じるメシってなんだろ、とナガノ先生の過去ポストを眺めながら考え、私はもう子供自体の敏感な味覚の感受性でものを食べられないんだな、と思っていたけど、焼き鳥、これは…たかぶる感情…煙くささが記憶を呼び起こし…実家の近くにあった焼き鳥屋…様々な縁日のおぼろげな感触…楽しい晩…喜び…と、完全に嗅覚の勝利。

9/23

今日で連休が終わる。これといったことをしていない。手持ちアクセサリーの金具付け替えと補修がてら、家に眠ってるパーツ、昔買ったものからバラしたり貴和でなんかの拍子に買ったり骨董市で安かったものなんかを集めた一団を使って、教室展のときにお手頃価格のピアスでも作っておくか…と思ってみたものの、だめだ。全然デザインが纏まらない。パーツ単体はいい感じでも、それを繋げるだけでは成立しない。繋げるだけでも丸カンのサイズや金具の色味をみないと調和せず、何かが足りてないか、足そうとすると過剰になって重くなりつけ心地が悪くなる。素材そのもののちゃちい感じはなんともならなくて、じゃあ良い素材があってもバランスを取り装着する機能性を付与できるかは難しい。あらためて思う。個人作家が作ってるアクセサリーは、同じようなパーツを使っていても魔法がある。素人が何も考えずに作れるもんじゃない。私は最初に完成のデザインを思い描いて取捨選択じゃないと無理だ。あるもので賄いながら決めるのはできない。作家さんは、どういうプロセスでデザインが決まるんだろ。私ならパーツを買う時点で必要なものを絞る目がないし、絞ったところでデザインを組み上げた時に足りないものに気付く。あれこれ組み合わせる素材、これも一揃いないと決められないと思う。作家さんはどれくらいの素材ストックの中でやりくり可能なのか謎。…というわけで、粘土でもこねておけば良かったのに、無駄に時間を費やした。挫折。

@uchili0315
卯ちりと暮らすねこ、うろんの日記