
英語学習には人一倍時間を割いてきた方だと思う。なので、語学習得の大変さは一定心得ているつもりでいる。なので旅先で言葉が通じないときや、拙い日本語を話す相手の言葉を耳を傾ける際、そこに必要とされる忍耐力はあると思っている。
旅先で英語話者が英語話者が揉めている場面に出会うことがある。何かしらの問題の発端があって、その後英語がうまく通じず怒っている。問題は人それぞれなので、それは両者の間で解決されるべきなんだけど、「なんで英語話せないんや」というフラストレーションを英語話者から感じることがある。英語が公用語ではない南米であっても、観光地なのに、という思いがあるのかもしれない。特に旅行慣れしていない英語ネイティブには多いかもしれない(主観)。
英語が通じるホテルや旅行ツアーはプレミアムが取れるので、それにお金を払ってもいいという層からアップサイドを取ればいい。そして、その前提なのに通じない場合などはそのフラストレーションはFairといえよう。ただ、前提として英語が通じないことに必要以上にフラストレーションを感じるのは傲慢。現地の言葉を話せとは思わないが、少しでも歩み寄る姿勢はあって然るべしだと思う。
…という場面に、旅行していると一度は出会うのでいつも思っていたが、自分もそうなってやいないか?ということを思った。無下に失礼な態度をとることは流石にないが、相手の英語力がそこまで高くない際に、話に耳を傾ける忍耐力が減っているのでないかと。目立ったものではなく、相手が言ってる内容がよくわからなかった際に、まぁいいかと適宜相槌を打って流すことがあるとかそういう感じだ。自分も10代〜20代前半の頃、様々な人に耳を傾けてもらったというのに。
先日語学力と流暢さの違いについて書いたが、自分の忍耐力が欠けてるなと感じるケースは、「流暢だが語学力がそこまで高くない」というケースかなと思う。南米は思ったより英語が通じなかったのだが、その中で英語が話せる人の層の人の殆どは、日本だったら「ペラペラじゃん」と言われるレベルだった。この「ペラペラ」は主に流暢さを指すが、必ずしも語学力(語彙力とか、表現の自然さとか?)を反映していない。流暢だなと思って話しているが、語彙力や表現の限界によりなんだか「あんま通じないな」と感じてしまい、耳を傾けることが億劫になる。「君が言いたいのはこういうこと?」というのを問いかけるより’I see.’と片付けてしまう。
このように、寛容さに欠けるなと感じたときには、喉にあっついお茶をぶっ込んで、ォェっとなりながら熱さを再認識した方がいいのかもしれない(そうなのか?)