静かなインターネットには、時として老害のような主張が飛び交う----
今日は40近い男性社会人っぽいしょーもない内容を書くんだが、言葉遣いの話をします。
大前提として、内容が伴っていればその人がどういう言葉遣いであろうと関係ない、結果が伴えばどうでもいいと思っている。
敬語に関しても、極論尊敬語と謙譲語は別になくなってもいいものだろうと考えているし(後述するが積極的に無くさなくてもいいと思っている)、僕は同僚に対しての言葉遣いでは尊敬語と謙譲語をなるべく使わないようにしている。や、ヒヨって取引先さんには使いますけど...。
尊敬語は、あとは本気で尊敬(軽めのリスペクトを含む)してる人にも使う。僕はすごい人間で謙譲することはないと思うので、謙譲語は日常会話では基本あまり使わない。
ただ、尊敬語や謙譲語が単に非合理的だとも思わない。この日本語における敬語独特の概念と用法(韓国語とすら違う、めっちゃ独特)は、日本語が、意味論どころか語用論のレベルで「ウチ」と「ソト」の概念と強く結びついていることの一つの結果(see also: 「あげる」と「くれる」の区別)なので、その概念が頭に入っていれば別に妥当に、論理的に使えるはずのものなのだ。まあそう言う言語があってもいいじゃないぐらいの気持ち。
話が逸れたが、とにかくそう言う背景で、別に敬語が正しいとかはその人の能力と無関係だ。と言うか、正しく使えないなら使わなければいいのだ!
と言うことで言葉遣いにむやみにこだわる、と言うか人に強制する人にはあまりなりたくないと思っている...
...しかし。
ここ最近、若い人と(テキストで)話していてこの間機になる言葉遣いが何度かあって。若い人とお仕事で何かを確認しているときに:
udzura: 〜ということだと理解しました。合っていますか?
若: そうですね
「そうですね」!? なんじゃそりゃ、と思ってしまったのだった。
次に思ったのは、こんなことでなんじゃそりゃと思う自分、ついに老害化が始まったのか!? であった。果たして僕は老害になったのか。
ただ、ここでお返事の仕方をいくつか入れ替えて考えてみた。
了解です → 別になんとも思わない
その通りです → OK
合っています → OK
ういっす〜 → いや、いいよw なんとも思わないかなw
そうです → これなら特になんとも思わないな〜
となると、「ね」がダメっぽい。なぜダメか?
https://pragmatics.gr.jp/content/files/SIP_08_Nakamura_wataru.pdf
例えば上記論文で紹介されている分類を借りるなら、終助詞「ね」には「会話促進」「注意喚起」「内容確認」などの意味があるという。
ポイントは、「ね」が存在すると、その分の内容の判断がその話者で完結していない、聞き手にある程度委ねられる、そう言うニュアンスを含んでしまう点だと考える。
これは、質問への回答に使う助詞としてはひどく相性が悪く感じられるのではないか?と思う。
今回は、「合っていますか?」と言う、英会話文で言うなら基本的に「Yes/No」の回答を求めている。そしてもう一つは、*あなたの*認識がどうなっているかについてを求めている。答えは、私が質問しているあなたの中にしかない状況のはず。
なので、シンプルな「Yes」あるいは違う箇所の情報を含んだ「No」を求めている。そう言う状況で、言ってみれば、「Yes、ってことでいいですかね...?」みたいな返事をされてしまうのは単純に困るし、なんだか無責任に感じてしまうのだなあと思った。
基本的に、お仕事の言葉遣いは
XさんにYということを伝えたい時に、それ以外の解釈がなるべくできないような言葉の使い方をすること
が肝要なのかなと思った。回答で「ね」を使ってしまうと自分で責任を持たない曖昧な感じが生まれる可能性がある。ただ、本当に曖昧に思って自信がないなら使えばよろしい。
...ということを真剣に調べて考えたんだが、あまりうまく説明できないてないですね(読者に判断を委ねている様子)。