『東京都同情塔』を読んで

uhiroid
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九段理江の小説『東京都同情塔』を読了した。芥川賞を受賞し、執筆にAIが使われたということで話題になった作品だ。

本作では、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」の建設がストーリーの柱になっている。そのタワーの別名が「東京都同情塔」である。

作中の世界では、犯罪者は「ホモ・ミゼラビリス」と呼ばれ、同情を寄せるべき人々というふうに定義されている。なぜそんなことになったのか。「ホモ・ミゼラビリス」の提唱者によれば、社会における成功はすべて運次第であり、犯罪者は単に「不幸な人々」であることから、一般市民は彼らに奉仕すべきだという理屈に基づいている。

このような主張は、けっして絵空事ではない。現実問題、成功も失敗もすべてを運の要素だけに限定し、そこから結果平等の政策を提言する者は数多くいる。当然ながら、そのような主張は現実を過度に単純化しすぎているわけであるが、では、この過激な主張の行き着く先はどうなるのかというのが、まさに本作の描いていることである。

作中の後半、建設された塔の上層階から、詐欺師の女性が勝ち誇ったように下界を見下ろすシーンがある。このシーンこそ、東京都同情塔、ひいては「ホモ・ミゼラビリス」というコンセプトの歪みを象徴している。

塔は税金で運営されており、経済学的にも問題を引き起こすことは明らかである。犯罪者になったほうがより良い生活を送れるのであれば、やがて真面目に働く人は減っていき、他者を害する者が増えるだろう。

しかし、本作ではあえて、そうした社会の転換は描かれずにいる。かわりに描かれるのは、塔の建築に関わった主人公の内面である。主人公は、犯罪者を「ホモ・ミゼラビリス」と呼ぶことにも、寛容の押しつけにも我慢がならないのだが、素晴らしい建築を行いたいという欲求から、塔の設計を手掛けてしまう。それによって、彼女は後に苦しむことになる。

私はこれを読んだとき、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』の逆パターンであることに気づいた。『肩をすくめるアトラス』では、才能のある人々は、政府や大衆からの搾取から逃れるために、彼らの世界では仕事をしないことを選んだ。その結果、峡谷で生活することを余儀なくされるのだが、才能のある人々は特に不幸そうにはしておらず、むしろ精神的な誇りを守れたことに満足している。一方、『東京都同情塔』では、主人公は自身の思想と真っ向から反する仕事を引き受けてしまったために、自らの精神を傷つけてしまった。

才能や努力よりも運を重視する価値観が広がったとき、社会はどのように変容していくのだろうか。そして、自分の信念と相容れない仕事に携わることで、人はどれだけ傷つく(あるいは堕落する)のだろうか。

また、堕落という点に関しては、本作はそもそも「言葉」に対する堕落が根底のテーマとなっている。犯罪者を「ホモ・ミゼラビリス」と呼ぶこともそうだが、「シンパシータワートーキョー」という名称もまた、言葉の定義を変えようとしていること、そして日本人が日本語を軽視しているという問題提起だ。以前、作者のインタビュー記事を読んだことがあるが、それによると作者は、AIに新語を作らせようとすると、カタカナ語ばかり生成されることに違和感を抱いたという。

本作では、言葉の堕落、そして言葉の解釈をAIに任せきりにする果てに、コミュニケーションが通じなくなっていくのではないかということが示唆されている。おそらく、作者の懸念は正しい。今後の社会では、AIが生成したものの良し悪しを判断する能力が重要になってくる。AIが「良い」というふうに生成したものを、そのまま鵜呑みにする者と、自身の価値観に照らし合わせて良し悪しを判断する者とでは、知的格差が開くことになるだろう。その格差はコミュニケーションの不可能性に結びつく。

@uhiroid
消費者。