マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において示したのは、カルヴィニズムの予定説が「資本主義の精神」の誕生にとって本質的な役割を果たした、ということである。こうしたヴェーバー・テーゼに対しては、これまで多くの批判が投げかけられてきた。とはいえ、「もっとも強烈なウェーバー批判者」でさえ、次のことは認めていると言ってよい。つまり、「カルヴァンの神学がカトリックのそれよりも、資本主義的な活動を正当化するのに好都合であった」ということである(I・ウォーラーステイン『近代世界システム I』183ページ)。ここでは、「カルヴァンの神学」が、どのような意味で「資本主義的な活動を正当化するのに好都合であった」のかという点には踏み込まない。私が差し当たり問題としたいのは、そもそも「プロテスタンティズムの倫理」は本当に倫理的なものたりえたのか、言い換えれば、予定説は、果たして人間の倫理的行為を本当に促進するものだったのかどうか、ということである。ヴェーバー・テーゼは、いわば「プロテスタンティズムの倫理」が惰性化し、倫理性が脱落することによって資本主義の精神が前傾化したと主張するものである。だがそもそも、そこで脱落すると言われる「倫理性」は、プロテスタンティズムのうちから必然的な仕方で生じてきたものだったのだろうか。
カルヴィニズム、あるいは予定説に関しては、二つの「曲解」がある。一つは、それが「実業家の営利活動を奨励する宗教として出現した」、あるいはそれが「致富欲を褒め称えたとか、少なくとも、実業家としての成功は、神に選ばれた者の証拠であるという信仰を広めた」というものである。しかしこれは、「厳密なカルヴァン派の信徒からすれば、覗いてはならない神の摂理の動きを暴露しようとする、おぞましい曲解である」。もう一つの曲解は、予定説と宿命論を混同し、「その結果、神の意志の前には個人の努力など無意味だと感じて無気力になり、仕事への関心をなくしてしまう」というものである(M. Robertson. "European Economic Developments in the Sixteenth Centrury". South African Jounal of Economics, XVIII–1, Mar. 1950, p.48.)。ロバートソンの報告によれば、かつてカーネギー財団が任命した委員会において、南アフリカにおけるプアホワイトが積極性や自立心を欠く一つの原因が、カルヴァン主義のこうした宿命論的側面によるものなのではないかということが真剣に議論されたことがあるという。その意味で、こうした曲解は、あくまで「曲解」であるにもかかわらず根強いものであると言うことができる。だが重要なのは、これら二つの「曲解」がいずれも、予定説はむしろ非−倫理的なものだったのではないかという疑いを誘うことである。「致富欲」も「ニヒリズム」も、いずれも倫理的なものだと呼ぶには値しないのである。
繰り返すが、上述した二つの解釈は、いずれもカルヴィニズム、あるいは予定説に関する「曲解」である。実際には、予定説の本質は、むしろ「二つの視点」を協働させることのうちにある。つまり予定説においては、「人間の内在的な視点」と「神の超越的な視点」、言い換えれば「〔救済の〕その瞬間に未だ到達していない事前の視点」と「その瞬間を既に通り越してしまった事後の視点」が共に働いている(大澤真幸『自由という牢獄——責任・公共性・資本主義』岩波現代文庫、92ページ)。第一の曲解は、神の視点の超越性を無視しているのであり、視点のこうした二重性を理解しないことに基づいている。では、第二の曲解はどうか。
私がさしあたり問題としているのは、予定説が、果たして人間の倫理的行為を必然的に促進するものだったのかどうか、ということであった。結論を言えば、予定説は人間の倫理的行為を促進する。ヴェーバーが考えた通り、究極的には、二つの視点の差異から生じる「不安」が、人を倫理的な振る舞いへと誘うのである。しかし第二の曲解が示唆するのは、そうした「不安」が必然的なものとして生じると述べるためには、それに先立って議論されるべきことがあるのではないか、ということである。つまりヴェーバーの理論は、予定説が、「私は自らが救済されないと信じているので、救済に値するような振る舞いなどしなくてもよい」という考えを退けうるようなものであることを前提している。では、予定説はいかにしてこうした考えを退けるのか。我々はここで、パスカル的な賭けについて考える必要がある。
予定説が我々に対して迫るのは、「あなたは、自らが救済されることを信じるか、それとも自らが救済されないことを信じるか」という賭けである。パスカルの言葉を借りれば、この賭けの過程は概ね次の通りである。まず、救済の瞬間と現在の我々との間には「無限の混沌」があるのであって、「この無限の距離の果てで賭けが行われ、表が出るか、裏が出る」。ここで、「一つの選択をした人たちを間違っていると言って責めてはいけない。なぜなら、あなたはその選択が正しいか間違っているかということについて何も知らないからだ」。だが、このような主張に対しては次のような反論が加えられるかもしれない。「——いや、その選択を責めはしないが、選択をしたことそれ自体を責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことなのだ」(パスカル『パンセ』ブランシュヴィック版、233)。——「正しいのは賭けないことなのだ」。この指摘は、たんなる真偽の判定に関する限り、正しい。しかし現実の在り方を考慮に入れるならば、この指摘はナンセンスだと言うほかない。我々は常に既に経過する時のうちに投げ込まれており、なんらかの行いを為すよう迫られている。たとえ「賭けない」という選択をするとしても、我々はどのような行いを為すかに関して決断をせざるをえない。つまり、賭けとしての賭けを拒絶するとしても、我々は、救済に値するような行為か、あるいは値しないような行為を選ぶという、別の賭けをなさざるをえないのである。パスカルは言う。「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」(パスカル『パンセ』ブランシュヴィック版、233)。
さて、第二の曲解——「神の意志の前には個人の努力など無意味だと感じて無気力になり、仕事への関心をなくしてしまう」という解釈——は、人々が、裏が出ることに賭けるだろう——つまり自らが救済されないと信じるだろう、という前提に基づいている。しかしこれは明らかに不合理である。予定説の賭けにおいては、パスカルの賭けとは異なり、神が存在することは既に前提されている。したがって救済の瞬間は必然的に訪れる(救済の可能性そのものを退けるのであれば、第二の曲解はもはや「曲解」どころか「解釈」ですらない。その場合には、「解釈」の対象が霧散しているからである)。だとすれば、「あなたは、自らが救済されることを信じるか、それとも自らが救済されないことを信じるか」という賭けそれ自体を考慮の対象とする限り、前者を選択しない、ということはあり得ない。人が自身の救済を信じず、「無気力になり、仕事への関心をなくしてしまう」のだとすれば、その直接的原因はこの賭けに内在的なものではない。そうではなく、救済の瞬間までに実現する快楽のみを考慮したり、あるいはそれまでに蓄積されてきた“業”に思いを馳せたりすることで、賭けそれ自体から意識を逸らされるからこそ、コインの裏面に賭けることになるのだ。しかし繰り返すが、それらはあくまで外在的原因に過ぎない。「あなたは、自らが救済されることを信じるか、それとも自らが救済されないことを信じるか」という賭けそれ自体は、必然的に前者に賭けるよう促す(それゆえ、こうした問いかけはそれ自体として回心の機縁となりうる)。そしてコインの表面に賭けるならば、可能な限り神の選択に追随しようとすることが、合理的な選択であることになる。
さて、プロテスタントの「能動的な選択性は、人間が、神によって選択されているはずのものを自ら推論することによって構成された」のだと言ってよい(大澤真幸『自由という牢獄——責任・公共性・資本主義』岩波現代文庫、103ページ)。一旦「表」に賭けたのであれば、つまり自らが救済されるということを信じるのであれば、このような仕方で「能動的」に振る舞うことには十分な理由がある。そのような推論すら決定されているのだ、という指摘は、別にニヒリズムを生むものではない。むしろそのことこそが救済の条件だからである。ライプニッツが、最善説によって人々の倫理性が促進されると考えたことも、以上と同様の理路によって説明できる。もし神によって世界が最善な仕方で創造されているということを信じるのだとしたら、神による選択を自ら推論し追随しないことは不合理である。それによって得られるものは何も無いからである。ではスピノザの場合はどうなるのか。スピノザの『エチカ』に、予定説や最善説が持つ目的因は無い。