〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉へ——それは思考から身体への転換だ。考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。(千葉雅也『意味がない無意味』12ページ)
目の前にあるトマトについて、我々はさまざまな意味を見出すことができる。「赤い野菜」、「机の上に乗っているもの」、「握り拳ひとつ分の大きさ」などなど。このように考えるとき我々は、トマトを意識している。意識を通じて、眼前の対象を分節化している(「これはトマトだ」という判断がすでに意識による分節化の賜物である)。
ところで我々は、こうした分節化を無際限に続けることができる。逆に言えば、我々は眼前にある対象を、完全に分節化しきることができない。いつまでも残るこの「いわく言いがたさ」(『意味がない無意味』11ページ)。眼前にある対象は、完全には思考しえないものなのであり、その意味で、意味を把握しえないものだと言える。千葉はこれを〈意味がある無意味〉と呼ぶ。
さて、このようなことが生じる原因の一つは、我々の「常識的な意識」(ヘーゲル)が常に一面的であることだ。我々は対象を分節化するとき、必ず対象の一面のみを切り取るかたちでその対象を理解する。しかし千葉にとって重要なのは、このような、人間の了解作用の一面性ではない。むしろ彼が着目するのは、そのような了解作用を続ける限り、我々は行為に踏み切ることができないということである。例えば先の例で言えば、眼前の対象が「トマトであり」、「赤い野菜であり」、「机の上に乗っているものであり」……といった分析を続ける限り、そしてその分析の終わりを待っている限り、いつまで経ってもその対象を食べることができない。「ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。〔……〕身体で行為する。そのときに我々の頭は空っぽになる。行為の本質とは、『頭空っぽ性airhead-ness』なのだ」(『意味がない無意味』13ページ)。
千葉が主題としているのは、〈意味がある無意味〉に対して〈意味がない無意味〉を肯定すること、言い換えれば、接続過剰に対して切断を肯定することだと言ってよい。無際限に増殖する意味を切断し有限化し、そのことによって「行為の現実化可能性」(『意味がない無意味』22ページ)を担保すること。これが彼の課題である。一面的な、そしてそれゆえに無際限に了解を続ける意識に対して、身体による行為を肯定すること。ドゥルーズの読解を通じて汲み取られたこうしたモチーフは、しかし、実のところヘーゲルのうちにも読み取られうる。彼は言う。「行動の方が知性の偏狭さを否定しようとし……」。
とはいえその際、議論の重心は反転していると言わねばならない。彼は次のように言っている。
行動するときには全精神がそこに注がれるが、意識の次元では精神そのものが意識されるのではなく、意識が正しいとみなす法則や規則や一般原則が意識されるにすぎない。行動の方が知性の偏狭さを否定しようとし、意識の方は特定の規則や規則一般を絶対的だと主張し、そこに意識と知性の本領があるというわけだ。(『哲学史講義2』長谷川宏訳、16ページ。訳文を変更した。)
ヘーゲルが着目しているのは、身体による切断ではなく、むしろ、言わば身体による接続の完成である。意味の過剰を断ち切るのではなく、意味の過剰を生きること。千葉は身体の行為によって意味の連鎖が断ち切られることに着目するが、それは認識主観(意識)の側から述べる場合にのみ通用する話である。たとえトマトを食べることを決断したからといって、実際にはトマトの意味が断ち切られるわけではない。トマトは無限に豊穣な意味を持ち続ける。たんに、意識が一度逸らされるだけである。振り返れば、千葉は東浩紀の認識論的・実践的傾向に対して、自らは存在論を展開するのだと言っていた(『動きすぎてはいけない』河出文庫、39ページ)。むろんそれは『意味がない無意味』ではなく、『動きすぎてはいけない』の課題に関する言明である。だが、『意味がない無意味』で著者が目指していたことも、また同様に存在論であったと言って的外れではないように思われる。
ところでヘーゲルの言う理性的思考とは、知性による一面的な了解を否定することで到達されるものであり、多面的かつ有機的なものである。ここで我々は、身体的行為が、そのような多面性と有機性を備えたものであることに気づかねばならない。とはいえ、身体的行為は、意識による媒介を経ることなき直接的なものであるに過ぎない。身体的行為には、多面性と有機性の「自覚」が欠けている。意識を媒介した身体、あるいは身体への自覚。これこそが理性的なものの原型である。