無の論理とオープン・イノベーション——80年代という転換期

uk1n
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1930年代から40年代にかけて展開された京都学派の無の論理は、いわゆるフランス現代思想、あるいはポストモダニズムの思想と共通するものを持っている(cf. 『柄谷行人浅田彰全対話』48ページ、121ページなど)。80年代になって、日本でポストモダニズムの思想がすんなりと受け入れられたのは、そもそもそのための土壌がすでに整備されていたからだと言える。日本の歴史が周回遅れのものであったがゆえに、却って(当時)最先端——と言っても10年ほど遅れてはいるわけだが——の思想と合流することができた、というわけである。

イノベーション戦略についても同様の指摘することができる。20世紀におけるイノベーションの歴史は、粗っぽく言えば三段階に区分されうる。まず19世紀の終わりから1930年代ごろまでは「個人発明家の時代」である。グラハム・ベル(1847–1922)やジェームズ・エジソン(1847–1931)(彼ら二人は同年生まれである)は、それぞれ既存の組織に属することなく発明を始めた。次いで1930年代から40年代までを、「自前主義の時代」と呼ぶことができる。デュポン社によるナイロンの発明や、AT&Tによるトランジスタの発明は、大企業内部でなされたイノベーションの代表的事例だと言ってよい。しかし1980年代から、とりわけアメリカが「スタートアップと大学の時代」に入る。つまり、大企業のみならず大学やスタートアップをも巻き込んだ、オープン・イノベーションが主流化するのである(長谷川克也『スタートアップ入門』第2章)。

それに対して日本では、ベルやエジソンの時代から1970年代に至るまで、「キャッチアップの時代」が続く。この時期の日本は、「外から取り入れた技術をうまく活用して、顧客の求める優れた商品を作り出して経済的に成功したという意味では〔……〕オープン・イノベーションを実践していたと言ってもいい」(長谷川克也『スタートアップ入門』28ページ)。「オープン・イノベーション」という語は、企業が、大学をはじめとする「企業の外部」から新技術や知識を取り込んで事業化する事態を指す。当時の日本では海外の大企業という「企業の外部」から新技術や知識を取り込むことで、事業化が推し進められていたのであり、その限りでそこにはある種のオープン・イノベーションがあったと言えるのだ。

ところで日本の「キャッチアップの時代」の終わりにあたる1970年代は、欧米における「自前主義の時代」(1980年代に終焉する)の末期に当たる。つまり、70年代に、日本はいわば周回遅れで歴史の先端を走っていたのだ。しかし「自前主義」のパラダイムのもとでは、大企業は自社の内部で基礎技術を研究・開発するのでなければならない。言い換えれば、このパラダイムのもとでは、基礎技術を社内で研究・開発することなくビジネス上の成功を得ることは、たんなるフリーライドだと見做されざるをえないのである。こうして日本企業は世界的な批判を被りつつ、周回遅れで——さらに時代の流れに逆行するかたちで——「自前主義の時代」を迎えることになる。繰り返すがこの時代にアメリカは「スタートアップと大学の時代」を迎えたのであり、この時期のアメリカの相対的停滞は、ある種の産みの苦しみによるものである。

いずれにせよ80年代とは、アメリカやヨーロッパにおける「自前主義の時代」の末期であるとともに、日本における「自前主義の時代」の興隆期でもある。そして日本におけるポストモダニズム思想の受容は、他ならぬ80年代に頂点を迎える。したがってこの時代に「『日本株式会社』の硬直化から、私たちを解放する決めぜりふ」(千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出文庫、19ページ)としてポストモダニズム思想が受容されたのは、決して偶然ではない。日本は少なくとも、二重の意味で「周回遅れ」であった。むろん二重と言うのは、経済的側面と思想的側面の両面があるからである。そしてこの二重性もまた、決してたんなる偶然によって生じたものではない。絶対的主語を拒絶し、あらゆるものの統制なき共存を許容する無の論理と、オープン・イノベーションとの親和性は明白だからである。こうした必然的な二重の周回遅れが、一方で大企業の勃興とそれによる相対的繁栄——これはすぐさま没落する——を引き起こし、他方でポストモダニズムの熱狂的流行を引き起こしたのだ。

@uk1n
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