原発事故、金融危機、自然環境破壊、そして世界戦争。これらが共有する特徴の一つは、発生確率が低く、かつ実際にそれらが生じたときに生じる被害が甚大だ、ということである。こうした「リスク」の問題の本質はどこにあるのか。
論点は三つある。科学的知識の性質に関するもの、確率を求める際の数学的条件に関するもの、そして法制度に関するもの、である。順に論じよう。
例えば、自然環境問題のリスクは科学技術によって適切に管理されうる、という立場がある。しかし科学技術やそれに連なる研究の発展は、むしろ確率予測に関する複数の立場を生じさせる(例えば、出生前診断によって生じる中絶可能性に関する問題を想起せよ)。「科学的知識が蓄積されればされるほど、危険性についての判断や対応策についての提言が両極に分散していく」のである(大澤真幸『自由という牢獄——責任・公共性・資本主義』岩波現代文庫、90ページ)。
また発生確率の算定に関して言えば、「理論」と「現実」のすり替えという問題がある。例えば我々は、原発事故に関して、冷却装置の事故が発生する確率を1/10000、予備電源で事故が発生する確率が1/10000だと仮定することができる。この場合、冷却装置と予備電源の双方で事故が発生する確率を、1/10000×1/10000=1/100000000だと算定してよいだろうか。結論から言えば、この計算は現実的には成立しない。冷却装置における事故と予備電源におおける事故が、それぞれ互いに対する独立事象である、ということを担保することができないからである。そればかりではない。「理論」と「現実」のすり替えは二重になされる。我々は、上述のような仕方で事故の発生確率を1/100000000だと算定した上で、こうした限りなく低い確率を、現実的には「リスク・ゼロ」だとみなしてしまう(『加藤尚武著作集 第10巻』361–363ページ)。
そしてこうしたすり替えの上に、法制度上の問題が生じる。例えば無過失責任という法的概念がある。これは、一定程度以上の社会的損害をもたらす出来事が生じた場合には、たとえ過失が無くとも賠償責任が生じる、ということを意味する。こうした無過失責任という概念は、「一定程度以上の社会的損害をもたらす出来事」を例外視することと表裏一体である。だが、ここで想起すべきは、我々がリスクを算定するにあたって、期待値を利用するということである。期待値は、「低い確率で生じる大きな損害=高い確率で生じる小さな損害」という等式によって成り立つ。しかし繰り返すが、無過失責任という概念は、「一定程度以上の社会的損害をもたらす出来事」を例外視することで成立しているのである。つまり、期待値を用いることと無過失責任を適用することは、決して相容れない(『加藤尚武著作集 第10巻』361–363ページ)。
以上の三つの論点は、「発生確率が低く、かつ実際にそれらが生じたときに生じる被害が甚大だ」という条件に即したものであった。しかしそれとは別に、こうした条件の可能性に関わる論点も存在する。そもそも、発生確率を計算するためには母集団を確定する必要がある。だが、原発事故、金融危機、自然環境破壊、そして世界戦争といった諸事象は、むしろ被害に遭う範囲についての無制約性をその本性とする。こうした諸事象に対しては、そもそも確率計算が妥当しないのである。