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        <title>uk1n - しずかなインターネット</title>
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        <description>uk1n さんの記事一覧のRSSフィードです</description>
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            <title><![CDATA[教養]]></title>
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            <pubDate>Mon, 15 Jul 2024 05:35:17 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[プラトンは『法律』で「人間形成〔陶冶教養〕こそ、私たちにとって最も大事なことなのだ」と述べている。こうした発想はヘーゲルにまで受け継がれることになるものの、両者の間には深い溝がある。プラトンにとって人間形成（陶冶教養）は「遊び」の本質である。ここで言う「遊び」は純粋なものでなければならず、それゆえ決して労働とは相容れない。ニーチェやアーレントが指摘するように、古代ギリシア的な観点のもとでは、労働は…]]></description>
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            <title><![CDATA[道徳実在論と人工知能]]></title>
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            <pubDate>Sun, 07 Jul 2024 08:39:21 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[ヘーゲルは自然主義的な道徳実在論の立場に立たない。ヘーゲルの言う倫理Sittlichkeitはあくまで人間の自由を現実化したものであり、人間の意欲および思考の産物である。その意味で、彼は自然の法と自由の法を峻厳に区別する。自由の法や倫理は、予め与えられているものではなく人間が産出するものだからである。とはいえこのことは、「人間よりも優れた道徳的判断力を発揮する」「スーパーインテリジェンス」が出現す…]]></description>
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            <title><![CDATA[無意味さ]]></title>
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            <pubDate>Mon, 24 Jun 2024 05:45:04 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[ポール・ド・マン（『読むことのアレゴリー』）やセルジュ・マルジェル（『欺瞞について——ジャン＝ジャック・ルソー、文学の嘘と政治の虚構』）によるルソー読解の内容を、次のようにまとめることができる。「ルソーは『告白』において嘘をついた瞬間が、悪意からほど遠いまったくの無垢で潔白な瞬間であり、そのことをありのままの真実として真摯に述べているにもかかわらず、まさにその悪意のなさ、無意味さゆえに、ルソーは、…]]></description>
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            <title><![CDATA[社会（科）学と文化人類学]]></title>
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            <pubDate>Fri, 21 Jun 2024 09:54:40 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[マンフレッド・リーデルは、ヘーゲル『法哲学』のうちに、ヘーゲルの時代にはいまだ存在しなかった「社会学」の萌芽を読み取りつつ、その限界を指摘している。「ヘーゲルの市民社会理論は、一面ではのちの社会学の対象としての「社会」、すなわち彼のいう「原子論の体系」（Enz., § 523）をそのうちに含んではいるが、それははじめのうちのことでしかない。社会的過程は欲求の体系とともにその運動を開始するのだけれど…]]></description>
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            <title><![CDATA[宗教の遺産・デリダ・世俗化]]></title>
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            <pubDate>Sun, 16 Jun 2024 04:40:32 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[「西欧諸国（ユダヤ・キリスト教的な）が行なっている戦争や軍事的「介入」は、最良の大義の名のもとに（すなわち国際法の名、民主主義の名、もろもろの人民や国民や国家の主権性の名、さらには人道的な必須の要請という名のもとに）実施されているけれども、ある面においては、やはり宗教戦争なのではないだろうか」（ジャック・デリダ『信と知』湯浅博雄・大西雅一郎訳、未來社、63ページ）。デリダのこうした主張は、確かに正…]]></description>
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            <title><![CDATA[最終戦争と永遠平和の後の戦争]]></title>
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            <pubDate>Fri, 14 Jun 2024 10:10:34 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[ヘーゲルは『法の哲学』においてカント的な永遠平和の可能性を否定している。もし永遠平和ないしそれを可能にする国家連合が現実に存在するとすれば、それは必ず有限なものでなければならない。現実に存在する（定在する）ものは、必ず有限性（規定性）を伴うからである。したがって実在する「永遠」平和は「有限な」ものでなければならず、自己矛盾に陥っている、というわけである。
ところで、『最終戦争論』において石原莞爾が…]]></description>
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            <title><![CDATA[価値の客観的実在性]]></title>
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            <pubDate>Thu, 06 Jun 2024 02:44:16 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[価値が客観的に実在するとはどういうことか？
価値が主観的に実在する、ということは理解しやすい。価値の主観的実在とは、ポジティブな心理的状態が生じることだからである。では、価値の客観的実在を、複数の主体に対して同時にポジティブな心理的状態が生じることだと言い換えてよいだろうか？
ところで、「他者が心を有するのかどうか」という問題に対して、直ちに明確な答えを与えることはできない（存在論的独我論）。そし…]]></description>
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            <title><![CDATA[予定説・ヴェーバー・宿命論]]></title>
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            <pubDate>Sat, 30 Mar 2024 07:45:46 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において示したのは、カルヴィニズムの予定説が「資本主義の精神」の誕生にとって本質的な役割を果たした、ということである。こうしたヴェーバー・テーゼに対しては、これまで多くの批判が投げかけられてきた。とはいえ、「もっとも強烈なウェーバー批判者」でさえ、次のことは認めていると言ってよい。つまり、「カルヴァンの神学がカトリックのそれよりも…]]></description>
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            <title><![CDATA[リスクの問題の本質]]></title>
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            <pubDate>Sat, 30 Mar 2024 06:12:05 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[原発事故、金融危機、自然環境破壊、そして世界戦争。これらが共有する特徴の一つは、発生確率が低く、かつ実際にそれらが生じたときに生じる被害が甚大だ、ということである。こうした「リスク」の問題の本質はどこにあるのか。
論点は三つある。科学的知識の性質に関するもの、確率を求める際の数学的条件に関するもの、そして法制度に関するもの、である。順に論じよう。
例えば、自然環境問題のリスクは科学技術によって適切…]]></description>
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            <title><![CDATA[無の論理とオープン・イノベーション——８０年代という転換期]]></title>
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            <pubDate>Mon, 25 Mar 2024 12:34:59 GMT</pubDate>
            <description><![CDATA[1930年代から40年代にかけて展開された京都学派の無の論理は、いわゆるフランス現代思想、あるいはポストモダニズムの思想と共通するものを持っている（cf. 『柄谷行人浅田彰全対話』48ページ、121ページなど）。80年代になって、日本でポストモダニズムの思想がすんなりと受け入れられたのは、そもそもそのための土壌がすでに整備されていたからだと言える。日本の歴史が周回遅れのものであったがゆえに、却って…]]></description>
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