2024年1月の日記(後半)

2024/01/31

●昔から右眼の涙腺が左眼よりおかしい。つめたい風とか強めの日差しなどで涙がでる。夏場は日除けに余念がないが、このところの冬晴れは不意打ちでこまる。●ファッションのことはぜんぜんわからないのだが、メゾンマルジェラのこのたびのファッションショーが退廃的・非人間的で素晴らしい。その背後にあるものを調べてみるべきかもしれない。

2024/01/30

●あれこれと読む。

2024/01/29

●ポッドキャスト収録。わいわいと楽しい。●さいきんいろいろな香りのお線香をためしているのだけど、香水とちがって一度にたくさんのものを試香することができず、香りの記憶の脆弱さに悩まされている。次の日の晩にはもう前の晩にためした匂いを覚えていない。比較ができないので絶対値でなんとか言うしかない。

2024/01/28

●日記の記事タイトルが、2027年の日記になってる。指摘され、確認したらその通りだった。何を思って2027年にしたのだろう…。打ち直して2024年にする。●某図書館で書架から雑誌をたくさん出してきてもらい、しんしんと読む。進捗があるのかないのかよくわからない心持ちで帰路につく。なにかを思いつくことはいつも運任せで、関係しそうな材料を無作為に放り込んだ頭を振ったり叩いたりするほかない。図書館からの帰りにお腹が空いたので、おしゃれなパン屋さんで柿とクリームチーズのねじりハードパンを買い、食べながら駅まで歩く。すごく硬かったのでしかめ面をしながら嚙みちぎる。●夜、ピラール・キンタナ『雌犬』をひといきに読む。あちこちに散りばめられた死の匂いにくらくらしながら。●この週末に見たかった展示がいくつかあったが、行けなかった。メゾン・エルメス「新たな生」崔在銀(チェ・ジェウン)展、それにTERADA ART AWARD 2023ファイナリスト展、どちらも今日までだった。世田谷美術館の倉俣史郎展も今日までだったが、これは年始にすでに見ていた。

2024/01/27

●クロッテッドクリームをたっぷりつけた甘いスコーンとミルクティーをいただきつつ、黒沢清『CURE』と、朝井リョウ原作の映画『何者』を見る(妙な取り合わせ)。『CURE』は見ている途中でじんわりサスペンス的に怖くなってきたので途中で見るのをやめ、Wikipediaで残りの展開を確認する(サスペンスの展開がうっすら読めてそのせいで尚更ハラハラする、というのがフィクションによってもたらされる感情のなかで一番嫌いかもしれない。『パラサイト』のバカンスシーンも嫌い。サスペンスではなくてホラー的に怖いのはもっと身体的だし稀に美的なので、好きだけど)。『何者』は、佐藤健の情けない斜に構えた演技がほんとうにダメな感じですごい。ダメすぎて恥ずかしくてむずむずする。じつは裏アカをぜんぶ友だちに見られてた、という状況の演出も思いのほか演劇的。●『何者』を見終わったあとで調子に乗って面接ごっこをする。わたしは格闘技イベント事務所兼ジムの運営会社の面接を受け、殴るとかわいいネコの鳴き声がするネコジム事業の推進を提案する。血生臭くて泥臭い非文化的なイメージを払拭して、拳と癒しを直結する新感覚な喧嘩体験を提供し、格闘技なるものを脱構築することで新規顧客を……。

2024/01/26

●仕事の関係で大学の先輩が来客し、お茶をだす。かなり妙なかんじがする。働いてるのを目の当たりにすると、と後になって先輩は言った。働いてるのを目の当たりにすると、なんだか、老いた親と久しぶりに会ったときみたいな気がしますね。頭ではわかってたんだけど、ああほんとにそうなんだなあと。ちょっと失礼なコメントだが、深く納得がいく。あらゆる親が刻一刻とからだを衰えさせてゆくように、あらゆる友はたえまなく労働の渦中に身を投じているのである。●夜、めずらしく活動的に過ごす。まず渋谷にいって中華料理をたべ、それから五反田に行ってゲンロンの面々に会う。かわいいバレンタイン・デーのプレゼントをもらってほくほくしながら終電で帰る。

2024/01/25

●いくらでも眠れるし夢を見ない。いちにちの半分をいろどる虚無、限りなく死に近く、温かいもの。

2024/01/24

●ホーフマンスタールの「薔薇の騎士」の芝居版を見ました、大いに笑いながら見ました、と連絡した相手から、「薔薇の騎士」はわたしのもっとも愛するオペラです、ワルツの憂愁がなければ滑稽になるのでしょうか、と悲しみに満ちた返事があり、極まり悪くちょっとしょげてしまった。●近ごろ毎日山に出勤しているひとが、屈強な木こりの話ばかりしている。

2024/01/23

●内親王が学部卒で就職の報せを受け、皇族ですら20歳そこそこで(形のうえだけだとしても)労働するのかと愕然とした。めぐまれた学者の家系なのにそのノブリス・オブリージュを果たさないなんて…。同時にこれは女性差別的な問題もはらんでいる。ただでさえ圧倒的に父権的な家系にあって女子にすぐれた教育と学識を与えないだなんて、どこまで奪えば気が済むのだろう(小室眞子氏は海外での研究の実績があってこそ自立できた面もあったのかもしれない、とふと思う)。

2024/01/22

●健康診断。寒いのですごい厚着をしたまま、脱ぐタイミングを失って体重計にのったら、いつもより3キロくらい重かった。

2024/01/21

●車を出してもらって静岡芸術劇場にでかけ、ホーフマンスタール『薔薇の騎士』を(オペラではなく)芝居にした公演を見る。ドタバタで面白かったけれどオペラの戯曲をぜんぶ読むとちょっと大袈裟すぎてくどいような感じをしてしまう(特にモノローグ)。公演前にたべた鴨蕎麦がたいへんおいしかった。公演後にさわやかのハンバーグを食べにいき、満腹になって帰路に着く。満腹なのに、途中のサービスエリアでゆらゆらと炊かれた静岡おでんを見つけてしまい、食べる(たまご、大根、もつ煮)。帰りの車中、オペラ歌曲の空耳アワー大会が開かれる。

2024/01/20

●最近出かけすぎだし、家で大人しく過ごそうと思っていたら、『夜想』のバックナンバー(ペヨトル工房時代のもの)をたくさん注文してしまった…。●石川義正『存在論的中絶』を読んでいる(タイトルはいかついけれど、主旨としては(もちろん?)中絶を肯定的に捉え直すことであるので、安心して読んで良い)。大江健三郎批判が面白い、そして大江がもしフェミニストだった場合にどんな小説を書き得たのだろうと想像してしまう。●バトラーの哀悼可能性というのはひとまず遍く保障されるべきものとしてあるという理解(合ってるかしらね…)だけど(たぶんこれは死ぬ前にすでに保障されているべきものなのだろう)、一方で、すでに存在してしまっている死が国家/家族/共同体が結束するための悼みの対象に祭り上げられてしまうことの暴力性というものが他方である。●中絶のような議論を哲学が取り扱うということは直観的には相当恐ろしい、なぜなら哲学はどこまでも根幹に男根主義的なものを隠し持っていることは間違いないから。事実、最近もトランスジェンダーに関する「哲学的」論文がジェンダー論の査読者によってリジェクトされたことをあたかも不当であるかのように騒ぎ立てるひとをSNSで見てしまったけれども、そういうひとがいてもおかしくないくらい哲学の大部分がファルスでできていることくらい、さすがにわたしのような世間知らずにも想像できる。だからタイトルにはぎょっとしてしまうというか、第一印象はまったく信頼ならない感じがしたのだけれど、『存在論的中絶』はわたしの読んだ範囲ではそのような悪しき哲学の男性性によって書かれた本ではなかった。そのような本が存在できると思うと哲学も捨てたものではないのかもしれない。

2024/01/19

●漫画家のNさんに日本一うまいシーシャ屋さんにつれていってもらう。作曲家のHさんと3人で。ほんとうにおいしくておどろく。シェリー系のフレーバー、マロン、そしてアロエも! アロエがめっちゃよかった。極められたシーシャ屋さんの仕事はフレグランスの調香師と同じなのだと知った。デザインやその他のことをあれこれ話せたこともうれしい。

2024/01/18

●ナイスな打ち合わせ。ホーソーンを読んだ。

2024/01/17

●ノロウイルス的な症状は波がありつつ結局一昨日まで続いていたから、年が明けてからの1週間弱はなんともぼちぼちという感じだった。2024年のアクセルをふんでゆかなければ…。

2024/01/16

●なぜか唐突にホテルで一泊し、朝早くに家に帰る。小さな部屋だったけれど窓がおおきくて壁いっぱいの朝焼けを見た。●はじめて映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の冒頭を見た。下北沢に、店に入るなり売りものの振り子時計がカチカチカチカチ…と際限なく音を鳴らしているインスタレーションみたいな空間を通過させるアンティークショップがあるのだけど、あの設えの元ネタはこの映画の冒頭だったのかなと思った。無数の時計の居並ぶ様のフェティッシュ。●なんとなしに線香のサンプルを取り寄せて焚いてみる。沈香/伽羅系の匂いの違いがぜんぜんわからない。お花系の匂いは華やかで違いがわかりやすい。●最近たまにコンビニで新聞を買って斜め読みしている。一面、国際面、文化面、あたりに一通り目を通すのにそれほど時間はかからない。すごく面白いことが書いてあるわけじゃないけれど、SNSよりもまとまっている。いまのところ、毎度ちがう新聞社のものを買っている。●新聞というモノのテクスチャは端的にかわいいので、報道関連の紙面はそのままに、暮らし・文化面の執筆陣を若めのライターや文章の書ける芸能人にしたら、スマホに飽きた若者は定期購読してくれるのではないか。なんていえばいいのだろう、むかし英字新聞をなぜかなんとなくお洒落だと認知していたのと同様に、日本語の新聞もマテリアルとしてかなりかわいいと認識するようになった。子供のころ、英字新聞はおしゃれで日本語のものはそうでないと感じることを不思議に思っていて、それは当時は英字がほとんど読めなかったからその視覚性が強調されお洒落に見えたということだと思うけれど、いまとなっては読める日本語新聞すらもかなりかわいい。複雑に屈折したノスタルジーとオリエンタリズムがあわさって、漢字・ひらがな・カタカナの集合体であるところの新聞がふしぎな質感を醸している。あととにかく、日常的な読む行為のためにスマホを見るのがだるいから、スマホに代わる半リアルタイムな情報源は愉しい。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)