2024年2月の日記

2024/02/29

●〆切だったのでテクストを送る。日々は生き延びるだけでぎりぎりなのにその間を縫ってちょこまかと文章を書きためることについては以前から狂っていると思っていたが、メインの仕事を変えてからなおさらどうかしてると思う。疲弊に次ぐ疲弊、徒労に次ぐ徒労。●知人がTwitterに書き込んでいた、この世がより悪くなるのを食い止めるために書く/つくる、というのが唯一励ましになりうるフレーズかもしれない。押し寄せてくる真っ暗な絶望を誰かのためにわずかに照らし返すだけ…。怒りのあまり燃え盛る無気力な焔を、わずかな善のために差し出すだけ。

2024/02/28

●すみだトリフォニーで高橋宏治さんのオペラ『長い終わり』を見る。調性やリズムの心地よい錯乱にみちた音楽的世界。言葉はポエトリーリーディングとラップが主だが、たっぷりと声楽的に歌うときのカタルシスの力強さがある。●会場で久しぶりに会ったひとが挨拶のように、新作どうですか、と問うていたのがなんだか面白い。わたしもだれかに会うたび挨拶のかわりに、新作どうですかって聞くことにしよう。

2024/02/25

●新宿で複雑なロシア東欧料理をたべる。たべたものを書きかけていたんだけど誤って消してしまったから割愛。

2024/02/24

●横浜でつどい、乾燥わかめで完全犯罪殺人を行う方法をみんなで考える。手づくりのおいしいスパイスカレー(春菊サグ)とアスパラのてんぷらとおしゃれなサラダをいただく。

2024/02/24

●ウィリアムモリスの壁紙柄のテーブルクロスが(ウィリアムモリスと明記されずに)ネットショップで叩き売りされていることに気づきちょっと気持ちが上がっている。デザインの共有財産! 壁紙を変えるのは大変だけれどテーブルクロスを変えるのはぜんぜん難しくない。というか、本の置きすぎで食卓が壊れてしまい、応急処置による醜い跡を隠さなければならないので、テーブルクロスは必需品なのだった(いまは淡いグリーンの布をかけている)。本の置きすぎでテーブルを壊すなんて馬鹿みたいだけど、テーブルクロスをかけたほうがかわいいことに気づきつつあるのでよかったことにする。

2024/02/23

●NHKオンデマンドで新日本風土記の秋田と軽井沢の放送を見る。東京に住むのにはもう何年も前から飽きているので、軽井沢とか尾道の田舎の中古住宅をしらべはじめる。●椎名林檎/東京事変のMVをいくつか見て(同じMVを何度見ても完全なる娯楽として機能する)、群青日和を聴いていたら、すごく昔の恋人が「椎名林檎は群青日和のときがいちばんかわいい」と言っていたのを思い出した。そのときはあまり納得していなかった(ぬけぬけと芸能人をかわいいといわれたのが気に入らなかったのかもしれない)のだけど、改めて見てみたらたしかにかわいいとしか言いようがない。椎名林檎はかわいいというより美人なタイプだと思うけれど、群青日和だけは狂おしくかわいい。すごくむかしの恋人の言うことはたぶんただしかったのである…。●椎名林檎を聞くのは政治的に正しいのかということは稀に自問するわけだけれど、ここまで骨の髄まで染み込んだサウンドを嫌いになるのは不可能に等しいのでどうしようもない。昨年末の紅白歌合戦の動画を飛ばし見していたときも、椎名林檎のところだけ三回くらい繰り返し再生してしまった。椎名林檎が保守であることは間違いないが、自民党的な目もあてられない腐敗した保守なのではなく、シンプルによりよい日本をめざしているタイプの漸進的な保守であると(共同体というものが幻想ではあるとしても)信じたい。

2024/02/22

●雪が降ってるよ、と噓をつかれて見た屋外に雪はふっていなかったが一瞬雪の日のような気分にすでになっていた。●『逸脱のフランス文学史 ウリポのプリズムから世界を見る』(塩塚秀一郎)を読んでいる。ところで(逸脱ではない)普通のフランス文学史の本をそもそも持っていないなと前から思っていたのだが、白水社版と東京大学出版会版があって、どちらにしようか悩んでどちらも買えていないという事態がしばらく続いていた。あ、悩むのならば2冊とも買えばいいんだった、と今日気づいた(教科書は読み比べてなんぼである。たとえば基本的な批評理論の教科書は一般に売られているものを一通り買っていると思う)。本棚はあいかわらずあふれているが…。

2024/02/21

●なんとなくNON STYLEのネタを見る。漫才そのものに飽きた石田を井上が引き止めようとして笑いを誘うような場面は、漫才とはまさに漫才をすることで成り立っているということに意識的な演出だと思う。

2024/02/20

●あらゆるお茶は水出し可能であることにふと気づき、家にあるすべてのお茶を順番に水出ししている。その気になって眺めてみるとじつにさまざまな種類のお茶が家にある。飲みやすいし、飲むたびに沸かしたりしなくていいのでかんたんだった。●書きものというものはほんとうにだるい。めんどくさい。文字を発明したひとはたいへん愚かで怠惰であったに違いない。すべての文明からいったん文字を盗み取りたい。●日本の書籍において写植からDTPへの変遷があったのが90年台半ば以降であるとすればわたしはDTPとほとんど同い年にあたることになるが、これはデザインの時代的/世代的認知に関する問題を発生させる。写植的なデザインとDTP的なデザインというものの差異が時代的に感じられるものなのか世代的に感じられるものなのか、わたしたちの世代には確かめようが無い。実際、生まれる前の「古い」デザインの感触はこれまで単に世代的に感じとってきたものなのかなと思っていたけれど、最近これこそが時代的なデザイン差異なのではなのではないかと気づきはじめた。たぶんだけど、書籍をぱらりと眺めるだけで出版年が90年台以前か以後かわかるのではないか。

2024/02/19

●書くべきものは書き終わらず、じめじめと不快ななまぬるい雨が降り、気が沈むのは然るべきこと。●ゲンロンの新人賞のシーズン(?)がはじまるみたい。去年は作品講評が忙しすぎて感慨もなにもなかったけれど今年はなんだかおかしな気分。ゲンロンでの「学び」とはなんであったのかといえばそれは読まれることの「味」であるというのが最近たびたび思うこと。ゲンロンにかぎらずあらゆる文学新人賞がそういう味わいなのだと思うけれど。うっかり参加してしまうと味をしめてしまう。●暗誦のための断片集をきちんとつくっていこうと思い始めた。

2024/02/18

●ロカストの会議のあと何人かで渋谷のディズニーカフェへ。ヘルシーが売りのカフェですべてのごはんが600kcal以下らしい。帰宅したあとみんな夕飯をたべなおしていた。●論文のOA化推進に関連して人文書の商業出版へのほとんどいわれのない悪口みたいなものがTwitterにそれらしくあふれていて、いったいなにを根拠に皆こういうことを言っているのかしらと思う。そもそも人文書にはあてこすりに値するようなマーケットはない。もともとのOA化は人文書のような零細商売ではなくて国際的な大手ジャーナルによる寡占と論文掲載料や大学からの購読料徴収の問題が発端なのだから関係のないところに飛び火させてなにか言ったような気になるのは愚かしい。人文書にあてられる出版助成の目的ははじめから学術成果の還元なのだから、寡占ジャーナルへの支払いにあてられる研究費とはまったく話がちがう。

2024/02/17

●ドラマ「不適切にも程がある!」の冒頭部を少し見る。父娘の悪口の応酬がピースのハートフル不良漫才みたいで面白いが、どうせコンプラなんて息苦しいというような、保守的なつまらない共感をさそう展開になるのだろうなと思うと見る前からなんだかがっくりくる。それならばまだimproveなどと無邪気に言い募る「あわれなる者たち」のほうが当然ましだということになる。●東大副学長でアメリカ研究者の矢口祐人氏による『なぜ東大は男だらけなのか』という新書が発売され、読みたいような読みたくないような。東大のミソジニーはほんとうにひどいもので、在学中はなんとなく適応してしまうのだが、時間が経つにつれて適応できたからよかったというものではないという遅延した怒りをたびたび反芻することになる。実際にそのコミュニティのなかにいると「男の子ってばかね」という気持ちになってまともに相手をしないという適応方法になってしまう。つまり、コミュニティの成員としての役割をはたしつつ仲良くなるのだとすればいわゆる「オタサーの姫」のような方法しかないわけで、そんな立場に甘んじるわけには絶対にいかないのだから表面的な関係以外を築くことはできない。明白なセクハラを受けたわけではなくても、なんとなくセクシュアルなニュアンスで教員から接されることでうしなわれていく気力も大きい。いまでもかつての同級生とか先生方と交流を持ちたいとはまったく思わないし実際に交流はほとんどないのだが(とくに前期課程)、交流を持ちたいと特段思わないという状況はじつは疎外なのであって、普通に学部の入試において男女の人数の枠をはじめから半々に定めておいた方がいいと思う。東京大学に入学したばかりの男子学生の大半はほんとうにおかしくなってしまっているし(彼らはとにかく受験勉強のつづきのようにして、(学内ではなく)近くの女子大(トウジョ、ポンジョ)の女の子を恋人にするために全力をつくす)、18そこそこの男の子たちを狂わせているこの構造は力尽くで変更する以外にどうしようもないだろう。●フィリップ・ソレルス『ドラマ』を読む。ひさびさに読書会をしたくなるような本を読んでいるという気がする(冒頭しか読んでいないけれど)。ソレルスの文章を読んでいると、今年も企画されているというV系SFのアンソロジーに、去年書いた「窓だらけの寝室」を連作化して2作目を書きたいな、という気持ちになる。でも11月の文学フリマのために文章を量産してバーンアウトし年末までを鬱状態で過ごすということを2回ほど繰り返してしまったので、あんまり欲張らないほうがいいような気もしている(「窓だらけの寝室」はけっこういい文章だと思うのだけどぜんぜん読まれてはいない。2作目を書いたところで推して知るべし、読まれるために書いてるというわけではないとはいえ)。●一日引きこもって過ごしているせいで副産物としての日記がどんどん増えてゆく……。

2024/02/16

●チューリップを何度見てもかわいい。けれども遅からず枯れてしまうことがわかっているので(切り花を買うなんて基本的には愚かなことだと思っているのだけど、かわいいからつい買ってしまう)、ぺぺロミアという名前の植物のちいさな鉢も買い求めた。記憶が正しければたしかにぺぺロミアという名前の札が付いていたと思うのだが、あとから画像検索するとあきらかに違う形状の植物の写真ばかりが現れる。わたしが買った植物はなんだったのだろう。

2024/02/14

●チューリップを買って花瓶にさした。可愛い。●顔の認識能力が低めであるような気がする。ほかのひとがどのくらいの精度と速度で顔のイメージをつくりあげているのか不明なので、自分の能力の相対的な程度はよくわからないけれど。わたしの場合、はじめて会った人の顔のうち、そのひとの相貌としてすぐに認知されるのは半分くらいで、残りの半分は「知人の⚪︎⚪︎さんに似ている人」というかたちで認知されているような気がする。三ヶ月くらいしばしば会っていると、ただ似ているひとではなく、⚪︎⚪︎さんとは独立した別の顔として識別できるようになる。そうなるまでは、そのひとの顔を思い出すとき思い浮かぶものがそのひとではなく⚪︎⚪︎さんと同じ顔なのだった。最近知り合ったひとのなかには、たとえばわたしの高校時代の体育の先生に似ている女性がいる。逆に、声色や喋り口調はずっとはっきり、ひとりひとりを識別して覚えていることができる。もっともこれには、初対面のひとがだいたいマスクをつけているという事情も関係しているかも知れないけれど。

2024/02/13

●書いていた文章がいきなり〈意外な結末〉を要求し始め、そうであれば序盤から手を入れなければならないのでたいへんブルーになっている。意外な結末なんてほんとうはいらないと思うのだけど、ほんとうはいらなくても盛り込むことができるようになってしまうのかもしれないことへの自己嫌悪がすごい。というか、お話しはいらないときっぱり言えるくらい文体そのものに快のある文章というものをつくれていないような気がして悲しい。●一昔前に取り沙汰された文学的流儀というのは、純文学かエンタメかによらず、次の時代において乗り越えられて無価値化するのではなく、さりとて永久に価値をもつのではなく、いわばスパイスとして機能するのかもしれず、そうだとすれば、たとえば反物語というスパイスをかけられた物語とはなにか、というような話になるような気がする。いずれにしても虚しく、かなしい。●「あさのあつこ 天才」で検索すると、あさのあつこが描いた天才的な子どものことばかり検索結果にあらわれるが、あさのあつこ氏自身の破壊的な作風の広さは注目されないのだろうか。本人が岡山在住であることも関係あるかもしれないが、あまりに広く日常的に読まれているせいで逆に著者の人格が神格化されていない奇妙な作家であるような気がする。カリスマなきカリスマ作家。

2024/02/12

●もっぱら家にいる。文章と料理。●レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンの若い頃は似ている、と「グッド・ウィル・ハンティング」を流し見しながら思った。タイタニックの予告編と、仮装大賞歴代優勝者まとめ映像を見た。仮装大賞なるもの、仮装の意味が瓦解していってよくわからないけどすごい。80年からはじまって2001年まで放送されていくなかでだんだんと洗練というか独自進化を遂げ、鏡や水面の反射を仮装で表現するもの、上下から覗き込むカメラワーク、背景が飛び去っていき走っているようにみえるものなど、かなりTVカメラのメディウムに特化したイリュージョンが人体によって凝らされるようになる。その意味でぜんぜん演劇めいていない。演劇にはカメラがない。

2024/02/11

●ホームセンターで紙粘土を買い、Yくんの家で開催される新年会へ。かぼちゃとタラのポタージュ、根菜と鶏肉の煮物、帆立の酒蒸し、といった手の込んだ料理がたっぷりとふるまわれる。デザートはきれいにむいた伊予柑と桜餅、草餅。●紙粘土でおのおのなにかをつくる。わたしは〈ズルレアリズム〉連作として、彫刻の技術がなくてもかなりリアルにみえるものたち(餃子など)をつくる。

2024/02/10

●昼間、文章と料理。夜、わりと大規模な新年会に出かけ、人混みにもまれる。

2024/02/09

●Blueskyのアカウントをつくった。

2024/02/08

●芦原紀名子氏の亡くなったことに関する小学館編集部の「現場」からの泣き落としの発表を見てあまりにひどいと思った。感情的な言葉ばかりをならべ、なにかしらの責任と関係があるはずの会社の内部の人間を、現場の声であることを言い訳に、読者とおなじ立場に引き下げようとしている。会社としての声明はいっさい出さずに、非公式にエモーショナルな演出で不信感だけ鎮火しようとするなんて姑息すぎる。●澁澤龍彦氏への失望と擁護のツイートがタイムラインにたくさん流れてきて食傷する(もっとも、あらゆるツイートが必要以上にながれてきてつねに食傷している)。澁澤が孫引きの塊であることもそれが美点であることも、どちらもべつに誤ってないのだし敢えて言い立てるべきようなことではない。わたしにとってより重要に思われたのは、元となったツイートにおいては、かつて澁澤にかぶれた「女の子」に遅れておとずれた嫌悪感が語られていることであり、たぶんその決定的な理由は孫引きのせいではないのだ(つぶさに調べたわけではないけれど、彼女のツイートに反論し、澁澤を擁護するひとはやはりというべきか男性が多かった)。澁澤的なものから学びながらも同時にそれを憎むべき理由を、わたしたちは丹念に考えなければいけない。●このように、つい嚙みつきたくなるような話題にTwitterはあふれていて、わたしは晩御飯にたべたトマトの味のことなんかをつぶやくしかなくなるのである……。ブルースカイのアカウントもたぶんいつか作るには作るのだろうけれど、わたしはThreadsにもMastodonにもあまりなじめてないので、結局どうなるだろう。SNSをやめたほうがいいことくらいわかっているのだけど。●ソーシャルメディアのことより、マスメディア(?)のことを話そう。NHKオンデマンドで流れていたドキュメント72時間、別府の貸し間の回について。この番組はだれにも知られていない秘境のようなところを映すところに味があるのだから別府だなんて、と思いながら見始め、案の定というべきかすべての絵があまりにエモーショナルだった。それは番組として良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、視聴者としては熱心に見入ってしまう。●「つい長逗留してしまいました」といって湯に浸かる100歳の男性——。数日の旅のつもりが、つい数十年離れられずに貸し間に逗留してしまった仙人のようなひとを見ている心地になる(実際には三年らしい、それでもすごいことだが)。禿げた頭のところどころから白髪がぼうぼうと伸びている。左胸のちょっとうえのほうに丸いものがくっきり浮き出ていて、あれはペースメーカーだろうと思う。このひとは旅先で死ぬのだろうか。

2024/02/07

●2日間、家の中であったかくしていると風邪がよくなった。家の外での体温のたもちかたがまったくわからないのだけれど、本当にどうすればいいのやら。年老いたひとが自宅で低体温症による死亡、といった記事を見るにつけて、明日は我が身と思ってしまう。29歳のまあまあ健康な女性、低体温症による死亡。凍死って一番うつくしい死に方じゃないですか、と慰めてくれた人がいた。凍死と低体温症の違いがあまりよくわかっていなかったのだけど、Wikipediaによれば、「ヒトでは、直腸温が35℃以下に低下した場合に低体温症と診断される。また、低体温症による死を凍死と呼ぶ」らしい。つまり、凍っていなくても、凍えていれば、凍死。●とはいえ、どちらかというとromanticizeされがちな死に方というのは水死だと思う、ひとは物語の中でたびたび溺れて死ぬ。でも、かの人の言う通り、たしかに凍死のほうが見た目には美しいだろう。どうやら、ロマンティックの度合いは美しさと必ずしも関係はないみたい。●少し本棚をかたづける。2m×1mくらいの本棚が4つあってそのほとんどの段に本が二重に詰め込まれている有様だけど、よく見ると奥側の死蔵された列には少し空きができており、そこに詰め込むことでやや床の本を減らすことができた。たぶん奥の列から本をだしたあと、奥につっこむのが億劫で手前に置くので、全体に本のかさが大きくなってしまうみたい。●ふしぎなことに、本棚を片付けると、持っていない本の領域が頭の中でくっきりとして、次なる本が必要になる。今日片付けてみて気づいたのは、わたしはあんまり海外の文学史の本を持っていないということだった。久しぶりに出てきた「人生がときめく片付けの魔法」の表紙にときめきを浴びせて、本棚にふたたびおさまってもらう(わたしはこんまりというひとの潔癖さがかなり好き)。●言うまでもないことだけど、書物というのはその稠密な存在においてすでに片付け終わっている。どれだけ積まれてもやはり書物はそれ自体において片付け終わっているのである。

2024/02/06

●風邪を悪くする。しばらく前からうっすらあった喉の炎症が拡大して(ぜったいに寒さのせいだ…)いちにちじゅう咳き込んだりくしゃみをしたり鼻をかんだりしている。あれこれためして気づいたことには、あまりに鼻のあたりの具合がわるいので、横になるほうがなにかが塞がる感じがして却って苦しい。立ちっぱなしがいちばん(上気道には)快適(もちろん立っているとちょっと怠い、ほんとは寝たい)。かくして風邪なのに丸くなることもできないで、部屋をうろつくことになる…。●立ちながら(あるいは座って)休まなければいけないのでまず台所に立ち、生姜と柚子とはちみつで飲み物をつくって飲む。天命反転住宅でYくんに教えてもらった魯肉飯、に似たものをたまにつくっているのだけど、家にあるものでそれらしきものができそうなので、野菜を大量の油で炒めはじめる。たまねぎと大蒜と生姜をこまかくして火を入れ続けると、あたりにアリシンの匂いがもうもうと満ちて、あまりのきつさに涙がこぼれる。しらべるとアリシンには殺菌作用があって風邪(予防?)によい?らしい。本当かどうかわからないけど、なんとなく薬膳めいた匂いは悪くない心地がする。ほかにできることがないので延々と火を入れ続け、ついにはアリシンの匂いはまったくしなくなる。なんとなく食欲がないので、魯肉飯めいたものはまだたべていない。●それでも夜が長いのでこんなふうにあってもなくてもいいような日記を書き、ほかの書きものをしようとしてあきらめ、あとはいったいなにをすればいいのだろう。そもそもこんな感じの鼻を抱えて、いつ寝ついたらいいのだろう。

2024/02/05

●雪が降る。だからというわけではないけれど、さむすぎる。昼間、凍えながら体じゅうにカイロを貼り、帰りの電車で熱さにもだえる。どうしようもない喜劇…。●雪景色のなか帰る。あかるくてきらきらでうれしい!

2024/02/04

●映画「哀れなるものたち」見た。みんな絶賛しているが、そんなによかったかしら(もちろん、映画の美術はとてもよかった)。●わたしの認識ではセックス依存症とはギャンブルなどと同じで社会的な病なのであり、今回の筋書きのように、理性や抑圧が欠けているというだけで陥るものではない。自然状態でああなるという物語の無意識の前提が、女の子に娼婦の夢を見過ぎている。恐らくありうべき筋書きは、セックス依存症の病を博士に医学的に植え付けられたベラが、依存症を自らの意思と成長によって克服する、というものになるはずで、今回のようにセックス依存そのものが成長として書かれるのはファムファタールを求める物語にとってあまりに都合が良く、興醒めする。●夜、ひさびさに集中して短編小説をたくさん読む。そういえば以前、お話はいかにして終わるのかという話を作家のひととしたときに、(純文学ではとくに)突然の暴力的なシーンが終わりの合図になると言ったことがあるのだけれどやはり、実際に読むにつけて小説はほんとうに、激痛とともに終わっていくものだと思う。

2024/02/03

●午前中なんだか調子が悪く、午後気づいたら真昼の寝落ちをしていた。何でそんなに眠る必要があるのか我ながらよくわからない。コーヒーを切らして代わりに紅茶を飲んだから、カフェインのバランスがおかしかったのかもしれない。●1週間くらいうっすら喉が痛く、扁桃炎になりませんようにと願う。●あるクレジットカードの更新で、ひょっとしてついに審査に落ちたのかしら、とぼんやり思っていたらひさびさに見た郵便受けに何枚か不在票が届いていた。家にいる日のほうが多いくらいなのに、よりによっていないときにばかり届いていたらしい(あるいは在宅だけど気づいてなかった、それとも気づいていたが戸口に出なかったのかも)。●夜、お医者さんになった旧友と6、7年ぶりに会って、ピザをたべた。で、いま何してるの、と聞かれ、うーん、まあカタギじゃない仕事、とお茶を濁す。

2024/02/02

●強力粉を捏ねて焼いた。捏ねることはつねに楽しい。昔からなんでもよく捏ねる。手先はわりと器用なので、包む料理の全般が得意。●捏ねるって字を捏ねる以外であまり使わないかもと思ったけれど、よく考えるとネツゾウのネツは「捏」だった。捏ねることとフィクションは似た位相にあるみたい、ということで、今度から捏ねるのが好きな理由を問われたらそう嘯いてみることにしよう。●留守電に中国語のメッセージが吹き込まれていて、なにがなんだかわからない。たぶん詐欺のたぐいだろうけれど、これでは騙されてしまうことすらできない。

2024/02/01

●鉱石と本がたくさんある場所に出かけた。鉱石と本はよく似ている。どちらにも古い層がたくさん刻まれている。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)