2024年3月の日記

2024/03/31

●新宿でロシア料理をたらふくたべる。たらふくたべてばっかりの年度末。●赤い液体の満ちたまんまるのカクテルのグラスが倒れてそこいらじゅうがびしょびしょになるのがスローモーションでくっきりと見えたのが、うつくしかった。ざくろジュースをあびて汚れた服を彼女が買い替えにいったところ、京大医学部の男性にナンパされたので、仕方なくいっしょに服をえらんだのだという。あまりにも新宿的なエピソード。

2024/03/30

●お昼、インテリアショップ。午後遅くからゲンロン総会へ。朝吹真理子さんと弓指寛治さんの「子ども教室」の隅っこで、卵パックやビニールをつかって夢の見本をつくる。いろんなひととご挨拶し、帰りはロカストのひととサイゼでたらふくごはん。ミラノ風ドリアをよく混ぜたものをフォカッチャに挟んで食べるやり方を教えてもらい、唖然とする。ライス・オン・ピザといった感じ(そんなものが存在してよいとするならば!)。どのメニューもたいへんリーズナブルでおいしいのだけど、でもサイゼリアはこの価格をキープするのは難しいだろう、と同席していたチェーンストア評論家が言うので、切ない。餞のような気持ちで、しみじみとスパゲッティやエスカルゴをあじわう。

2024/03/29

●春野菜の料理をたらふくご馳走になる。小一時間でつくってもらった手料理だが、料亭のごはんのように美味しい。ふき味噌(ふきのとうの味噌)がとりわけ香り高く、おもわずいろめきたつ。どうにか自分でもつくれないものかしら。

2024/03/27

●六本木でロブスターや、山とつまれたやわらかな肉のステーキ、その他の充実した前菜や付け合わせの数々をたらふくたべる。わたしにとってはここ1年くらいでいちばん贅沢な食事だったが、なにからなにまでご馳走になり、帰りにはタクシーにまで乗せてもらったので、偉大なる先輩方に手を合わせて拝みたいような気持ちになる。シャーベットの最後のひとくちまで絶品だった。

2024/03/25

●田中純先生(タナジュン)最終講義へ。方法の愉悦にみちていた。身体を以ってうみに潜ること。ヴァールブルクからボウイまで登場人物はパレードをなし、とりわけ磯崎新に多くの言葉がそそがれた。『シン・イソザキ論』の刊行準備中とのことだからその議論が中核に浮かび上がっていたのだろう。もしアーカイブが公開されたら建築系のひとにぜひとも見られるべきものだと思った。●講義後、Yくんと黒川食堂へ。学生のように山盛りの定食をたべる。

2024/03/24

●オペラシティアートギャラリーで企画展「ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家」を見た。コレクション展で落田洋子作品をいくつも見られて良かった。わけても《どうぞお入りください》と題された静物(?)画、注がれあふれるパフュームめいたもの、投擲されたパール玉の軌跡、極小の裸婦に巨きな花。●静岡の天地耕作展に行かねばならなかったのに行けなかった。たった2ヶ月足らずの会期だったとは、不覚…。

2024/03/23

●ひたすら呻いて進捗を生み出そうと試みている。気晴らしに古書をあさっていたら、「世界に股を開いた出血ヒーリング小説!」なる帯文の実験小説が3万円ほどであるのに行き当たり(キャシー・アッカー)、書物の世界はまことに鬱蒼たるものと思い知った。●中日新聞によれば、「愛知県美術館(名古屋・栄)が、評価額5億円の油彩画の寄贈を受けたことが分かった。作者は、英国出身の女性美術家レオノーラ・キャリントンさん(1917~2011年)。女性作家が手がけ、国内の公立美術館が所蔵する作品の中では最高の価格帯とみられる。4月26日から始まるコレクション展で初公開される」とのこと。見に行かなくては。●レオノーラ・キャリントンをさん付けで呼ぶのには、ピカソをピカソさんと呼ぶのと同じくらい違和感がある。報道で誰に敬称をつけるのかは恣意的なもの(演出)なのだから、上記のように「公立美術館への収蔵」という作家を美術史に織り込むことに資する出来事を報道する場合には明らかに誤りだろう。親しみを込めていたのかもしれないが、女性作家を軽んじているようにすら読めてしまうので悲しい。ダリの展示について書くときにダリさんとは書かないでしょう。

2024/03/22

●公演『ヤッホー、跳べば着く星』の初日に出かけた。上演を日常へひらくことと日常を上演に閉じ込めることは似ているようで決定的に違う、ことをまざまざと知る。この場で試みられるのはもっぱら後者で、それゆえ変更されるのはあくまでこの場とこの場に浮かぶ虚構に限定されており、翻っていたずらに現実を侵蝕しようとはしない。観劇する(させられる)ときに慣習的に生じる観客の当然の不自由を和らげるための言葉や演出の数々は、上演の場を弱めることなく観劇の態度の和らぎそのものを上演の固有の質として取り込み、それを皮切りとしてあらゆる日常的なしぐさや思い出の断片が、ましかくのゼリー寄せのようにつるりと目の前の空間に虚構として閉じ込められていく。それを可能にするダンス/短歌/歌/演劇のフォーマットや現れた虚構の内実は短い言葉では説明できないけれど、ぎりぎり個人的であり同時に匿名的であるいくつかの場面は、観客であるわたしの個人的な思い出を引き出して別の場面を捏造させもした(空を見上げて、背中に芝のささる場面で、わたしはべつの空を見ていた、それはともかく)。あらゆる形式を試し尽くすような表現は見る人にとって酷薄なものになりがちだけれど、この場に関してはそうではない。技術の研ぎ澄まされた各々の身体が日常からの採集物を慎重に選別し、隅々まで温かみが制御されている。

2024/03/21

●あまりに悲しみにくれていたのでアンを読む。

2024/03/20

●死者のように長く、切れ目なく眠っていた。たぶん低気圧のせいだろう、きょうは文字通りの嵐で、強風でときどき窓が鳴り、つめたい雷が聞こえるのが恐ろしい。いやな感じの頭痛がする。このところ喉やら頭やらどこかしら痛むことが続き、いつも飲んでいる痛み止めの薬がなくなってしまうのでつぎの箱を注文する。●気圧で体調が変わることをあまり認めたくないというか、認めるほどにプラセボ的にその傾向が強まるのではと考えているので天気と体調のことはあまり紐付けないようにしている。とくに、気圧が下がるという情報をまえもって自分に与えないようにしている。体調がわるいときにはじめて気圧を調べて、気圧のせいであったと納得するほうが、なんだかお得な感じがする。

2024/03/19

●オムライスをつくるのに長けている。

2024/03/18

●国会図書館で調べ物。予想を超えて驚くほどの徒労におわる。情報というものは儚いものだとつくづく思う(まあ、個人情報保護法の影響もある)。わたしも死後10年くらいでいくら調べても特定できない謎の人物になるのかもしれない。死後10年といわず、死ぬ20年くらいまえにはもうあらゆる忘却に甘んじているのかもしれない。持てるものがとくにないので相続のことなど考えたことがなかったが、著作権も財産とおなじように、もしかしたら顔も知らない親族へ相続されるかもしれないと思うとふしぎな心地(実際、子がおらず父母や祖父母も亡くなっていればきょうだい、きょうだいが亡くなれば甥・姪が相続する。わたしの死後70年後までにはおそらく父母も祖父母もきょうだいも亡くなっているであろうから、著作権は事実、顔もしらない(生まれるかどうかもわからない)甥や姪やその子どもに相続されることになる。たとえばわたしが80歳で死んで、わたしにおよそ30歳年下の姪がいた場合、わたしの著作権の切れるおよそ120年後(死後70年)には姪が120歳という計算になるから、たぶん最後の30年くらいはさらに姪の子ども世代に相続されているであろう。なんということ! やっぱり著作権保護期間は明らかに長すぎて馬鹿らしい。まだ生まれていない姪の子どもにわたしが存在を認知されているイメージすらもわかない(姪の子どもであれば一度や二度は顔をあわせる可能性くらいはあるかもしれないけれど、向こうの人生にとってはそんな親戚縁者など居ないも同然だろう。わたしも、親の叔母のことなど、まったく知らないわけではないにしてもほとんどわからない)。まあ、実際は、死後20年であっても、継承者がわからないものはどう調べたところでわからないのだが)。

2024/03/17

●改稿やプロット作成にくるしみながら紅茶のパウンドケーキを焼く。はじめてつくったのにやたらと美味しくておどろく。●アルノ・シュミットの超長大な怪作『紙片の夢』の英訳を何年もかけて読んでいるシカゴ大学のオンライン読書会があるらしい。題してメガ・ノベル読書会。狂気の沙汰としか言いようがない!『紙片の夢』は日本語訳がないし(訳書の刊行が困難なのが納得いくくらいの怪作らしいので文句は言いづらい)、すでに何年もかけて既存の参加者はかなり読み進めているらしいので参加は見送る。代わりに、ペレック『人生・使用法』の英訳を精読するスピンオフ読書会があると聞いて、勢いで申し込んでしまう。シカゴ時間で日曜の朝から、日本時間だと日曜の深夜から。英語でのアカデミックなやりとりはしばらくやっていないけれど、果たしてついていけるのかしら、そして月曜の朝は起きれるのかしら…。それにしてもメガ・ノベル読書会という名称は本当にどうかしている。フィネガンズ・ウェイクが復刊するらしいので(価格がとんでもないのでわたしは買えないが…)、ジョイスを題材に日本版の読書会でもしようかしら。

2024/03/16

●横浜トリエンナーレへ行く。晴れていてあたたかく、花粉症じゃないのに空気が粉っぽいのを感じる。ひさしぶりに充実した現代アートの展示を見た感があり、まだ横浜美術館の会場にしか行っていないけれどかなりの満足感があった。水準の高い現代アートの展示なのに知らない作家が非常に多く、おそらく作家の出身地を意図的にばらけさせているからだと思う。普段みているものがどれほど偏っているか意識させられる。●建築としては非常に端正かつ重厚なグランドホール(丹下健三による設計)は、アーティストが組み立てるテント的なモジュールに占拠されている。都市空間での明るいサバイバルを見せつけられているようで、太古の昔に読んだはやみねかおるの児童小説『都会のトム&ソーヤ』を思い出した。都市のゲシュタルトをまずは崩壊させ、あたらしい自然状態のなかから原始的生活を再構築すること。●ホールの部分のみならず、〈自然〉の水準の流動的な書き換えが展示全体のあらゆる場面で試みられていた印象をうけた。日本語では美術館と博物館に分化してしまったmuseumの再統合、美術とと考古学と自然史的なもの、そして歴史=物語化された政治の水準の混淆。アート作品を自然ないしは出土物、歴史的資料であるように見せたり、その逆のように見せたりする。そのようなキュレーションの圧のなかで、作家は能動的な表現者であることと、受動的に見せ物にされることのあいだを政治的に/美学的に往還する。●直感的にもっとも感銘をうけたのは你哥影視社によるインスタレーション(?)《宿舎》。台湾の工場で働くヴェトナム人女性たちが、寮に立て籠っておこなったストライキの様子を再現するビデオ作品などを核として、その寮の内装をおもわせる展示空間が組み立てられている。おそらくビデオの内容そのものがストライキの再演(ワークショップ)なのだが、それをこの空間内で眺めるわたしたちも、ストライキにかかわる諸身体をみずからの身体で、やや傍観的な立場から再演する。わたしたちはこの空間のベッドに実際に身を横たえて映像を眺めることができるから。たとえばストライキは抵抗であると同時に、一部のメンバーにとっては仕事をしないで手持ち無沙汰になった状態でもあり、その退屈は作品の鑑賞者であるわたしたちの心の動きと相似形である。あるいはストライキの様子を(ベッドの中から!) SNSでながめているだけのわたしの身体とも相似形である…無数の女性の寝床のひしめきあう寮(ドミトリー)の空間のなかで映像をみること。寝床においてわたしたちはさまざまな夢をみる、ただの夢もみるし、手のひらのデバイスのなかの動画もみる。寝床とはじつのところ日常的なまなざしの装置でもある。何年か前の京都でのピピロッティ・リストの展示では、ビデオの映像が身体に密着して展開するような没入感がもたらされていたけれど、《宿舎》におけるそれはわたしたちの晒され慣れたメディア環境を経由して展開する。わたしは傍観している、まるで鑑賞者のように。まるで俳優のように。まるで当事者のように。

2024/03/15

●とある打ち合わせ。なんだかんだ(自分も含む)若い人がわりと仕事をしていて、出版業界もいまのところは(経済的にはまったくうまくいっていないけれど、文化としてはぎりぎり)捨てたものではないなと思う。●夜は読書会、読書会といいながら読んだのは譜面。昔取った杵柄的に絶対音感が保たれているのはうれしいけれど、譜面の読解力はかなり錆びついているので(もともと譜面ではなく耳でおぼえていた気もするけれど)、やっぱり電子ピアノなんかを買って音楽の感性を取り戻したほうがいいのかしらと悩む。読書会をしているうちにまたつぎの企画を思いつき、企画の永久機関になっている…。一方で、自分の原稿もあれやこれやとすすめなくては…。

2024/03/13

●江戸川乱歩を読み、こわすぎて震え上がる日々。

2024/03/11

●国立西洋美術館『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』の内覧会で、西洋美術館と提携関係にある川崎重工がイスラエルに武器輸出していることへの抗議パフォーマンスがおこなわれる。ある年齢以上のひとたちがその方法について盛んに批判している一方で(たぶんかつて夢破れた苦い思い出があるのだろう)、該当の展覧会に出品している若いアーティストの一部が政治的であることそのものに嫌悪感をしめすという幼稚な態度をとっており、呆れ果ててしまう。抗議内容は支持するが抗議の方法は支持しない、という立場ならばわかるけれど。●この件だけに言えることではないのだが、左派的なことはもはやもっぱら女性的なことになってしまっているような気がする。フェミニズムに関する問題かどうかにかかわらず、アクティヴィズムの負担を女性が担わされ、男性は傍観しているという状況がめだつ。当事者性というものを過大視してきた文学・芸術的潮流とフェミニズムの関係がゆがんだ影響を及ぼし、自分自身が「被害者」ではないことについて抗議はしないもの、というような態度が染み付いているようなところがあるかもしれない。もちろん言うまでもなくそんなことはないはずなのだが。

2024/03/10

●週末にとけるほど寝て体調をなんとか持ち直す。

2024/03/07

●風邪のためにたいへんつらい思いをしている。喉の極限的な激痛は2年前に経験したので較べるとまだましと思えるけれど、それにしてもひどい痛み。涙目で痛み止めをのむ。

2024/03/06

●風邪をひいた。この冬でお腹の風邪を1回、喉と鼻の風邪を2回ひいている。一冬の罹患回数としては最大かもしれない。完全リモートだった過去数年で免疫力が落ちたのと、最近は絶えず寒さにさらされているからその両方が原因か。免疫のためには保温、睡眠、ビタミンが肝要。昨晩は電気毛布をつかってサウナのように熱くした布団のなかで擬似的に発熱し病原体をやっつけた(つもり)。

2024/03/05

●風邪の引き始めに打ち合わせ。がんばった。

2024/03/04

●本を探すために本を整列させていたら埃を吸い、気づいたら喉が痛くなっている。

2024/03/03

●さびしさは鳴る、というのは『蹴りたい背中』の有名な書き出しだけれど、わたしにおいて鳴る感情はさびしさではないな。希死念慮とは違う意味での「死にたさ」のような感じ。ティーンエイジャーがあー死にたいと軽薄に言うときの怠い死にたさ。死にたさは鳴る。世界がいまより悪くなるのを食い止めるためになんとか死なないでいる。

2024/03/02

●エントロピーに烈しい憎悪を示しながら部屋をかたづける。真の稠密構造にたどりつけば本棚に余裕があったことになるかもしれないと願いつつ…。●ハイパーリアルなケーキをつくるYouTuberの動画をときどき見る。日常的なものに擬態したケーキというのは昔からバラエティ番組とかに出てきたような気がしているけど、SNS時代にはカメラの効果を用いることで遥かに高度な演出ができている。ケーキを切る手そのものがケーキであったり、ケーキをのせている台そのものがケーキであったり、手を描く手を描くエッシャー的な自己言及の世界観に至っている、これはケーキのモダニズムなのかもしれない。

2024/03/01

●前日に原稿をだしたその足で、今度はエクストリーム6時間打ち合わせをする。エクストリームな日々。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)