2023年12月の日記(後半)

うかろに日記
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2023/12/31

●大掃除がはかどらない。まだけっこう疲れていて、眠る。●夕方、渋谷のひとのおうちへ遊びにゆき、近所でうどんをたべ、まだ日付は変わってなかったけれど代々木八幡に遊びに行く。みんな変に高揚し、すべての出店で売られていたものを制覇するかたちで、焼きそば、ベビーカステラ、たこやき、もち、じゃがバタをたべる。ほぼすべての店で一番客だったので、出来立てのおいしさだった。●帰って、スマホの表示が0:00になったのを見届け、すぐねむる。

2023/12/30

●アートラジオの朗読を終え、疲れ、眠る。夜、かなり多様な年代のひとたちのあつまる忘年会があり、へろへろながらもたのしむ。

2023/12/29

●南島さんの企画「24時間アートラジオ」の企画「2023年の日記を全部読む」のためにこの日記1年分(14万字)をプリントアウトし、読む箇所を抜粋する、という作業を3セットおこなう。朗読時間はあわせて1.5時間だが、わたしはほぼ全体に目を通したかたちになり、たいへん疲れる。

2023/12/28

●夜、PARAの批評・時評クラスの説明・宣伝スペースを配信する。一言で答えの出せない話題が多かったけれど、書く行為をどれくらい外在化するのか、それがどれくらい倫理的なのか、ということが問われて、面白い話になっていたような気がする。時評とは、見たものが面白かったかどうかをとわずとにかく全部感想を書いていくという、ストイックだが外在的な行為。批評のクラスも、とにかくたくさん無料招待を受けられるというのがストイックなポイントで、そのようにただひたすら量をこなすことはマッチョイズムなのかというようなことがうっすら問われ続けていた。でも、この「うかろに日記」も広い意味では極私的でジャンルまぜこぜの時評のようなものだと思うけれど、ご覧の通りマッチョイズムとは無縁の、静かで自由な場所であるように感じるのだけど、どうだろう。

2023/12/27

●最近よんだ本、ヨン・フォッセ『だれか、来る』。戯曲で台詞しかないのであっというまに読めてしまうのだけど、終わり方があまりに唐突でおどろく。戯曲をあまり読み慣れていないので、なにが試みられているのか測りかねるところがあるが、たぶん一番の面白さはそれが書かれた言語の性質にあるのだろう(いま手元にないのであとで補足するが、書き言葉でしか使われない言語によって発声を前提とした戯曲が書かれたということらしい)。●最近よみなおしつつある本、魚住陽子『奇術師の家』。収録作の「静かな家」がすごい(まだ表題作を読みなおしてないけれど)、「家」という静的空間の美を愛するあまり血の通った家族への愛にまったく無関心の女の話。この本はずいぶん昔に文庫で読み、それをなくしてしまったので単行本で読んだ。単行本はうつくしい装いをしている。いずれも品切れで、文庫版は古書もすでに売られていない。

2023/12/26

●おめでたい人間なので、23日から三日間ずっとクリパ的食卓を囲んでいるし、まだささやかなパーティーをもよおせる食材がうちにある。●あたたかく機能的な服をそろえてゆくとUNIQLOだらけになってしまう。まいにち部屋の中で過ごしていたときは、ずっしりとした品の良い毛糸の服を好んでいたけれど、さいきんは労働のために肉体を酷使しているので重い服ではくたびれはててしまう。十二単を着てじっとしていられるような暮らしをしたいのだけど。●年末に向けてつくるべきものがつくりおわらない。年末年始を休暇と呼ぶのはまやかしで、ちょっとした用事をいくつかこなしていたら休む間もなくおわってしまう。年末年始は休暇ではなく、きっちり業務外労働=家事と親族づきあいというもう一つの経済の時間のぶんしか与えられない。年末年始にかぎらず、この国にはまともに休暇とよぶべきものが存在しておらず、それだから文化と政治が根こそぎ死んでゆくのだと思う。文化産業にかかわるひとすら休暇がないなんてどうかしている、なにも研究できないのに作り続けなければならないなんて。

2023/12/24

●紀伊国屋書店にいって蓮實重彦『フランス語の余白に』とデニス・ダンカン『索引』を買い求める。前者は聞き話すのではなくひたすらフランス語を書き取ることによってフランス語を学習させる。後者は、電子書籍の時代に存在意義をとわれるあの巻末付録について記す。いずれもなんだかアナクロな本である。●フランス語を書き取るというのはでも確かに、音から入るよりも遥かに言葉に親しみやすい感じがする。初学者なのに見たら大体意味の憶測できる単語が多くを占めている。日本語訳をつくってもよいのだけど、英訳するほうが簡単なのでそうしながら覚えていく。●夜、M1を見る。なんだかみんなきちんと漫才が上手だなという印象で、去年のほうが想像のつかない言葉の上演を見ている感じがしてわたしとしては熱かった。話の構成やオチで魅せる組があまりなく、間断なく繰り出して場を持たせるものか、繰り出せずに停滞させてしまうものに二分される。4分という場の時間になめらかにはまったものがなく、ショート動画的にどこを切ってもおいしいネタへ向かってしまうのかしらと思ったけれど、M1で必要だといわれる爆発的な笑いというものは他ならぬ時間、違和感と緊張の引き伸ばされたあとに許可されたひとときによって構成されるものだろう。詰め込まれたギャグの連続が笑いの評価に結びつくのであれば、ギャグそれぞれのセンスが問われるわけだけれど、間断なく繰り返されるジャッジメントに観ているほうも疲れていき、頭に何も残らない。●番組の演出として、「結成12年、悲願のM1ファイナリスト」みたいなコンビ紹介は感動を誘うというよりも、そんなにやって芽が出なかったのは可哀想だしもしかして実力がないのかしらという連想を働かせてしまい、M1のクオリティへの信頼が下がるのでどうかと思う。芸のために何年も努力するのはありふれたことで、ことさら強調しても仕方ないでしょう。また、「(コンビ名)とは——〇〇」というコンビ紹介の締めは、〇〇がすべて面白くなく、やっつけで埋められた一言コピーのように感じた。籤で出る順を決めるのは公平性を担保させるものなのかもしれないけれど、もたつくし、後半に行くにしたがって、序盤の出来を超えることはなさそうだという諦念がひろがっていくので、準決勝で好成績であった人ほど決勝の出番を後にすれば緊張感がうまれて良いのにと思った。

2023/12/23

●お昼に、朝吹真理子さんの個展、二度目の訪問。冬晴れのひかりがあふれていて、ギャラリーと街並みがとけあうような効果がある。友だちと行き、朝吹さん自身による絵の説明(前回それぞれが聞いたもの)をわたしたちが反復して教え合い、たぶんこの展示は、朝吹さんが絵のことをいちいち話してくださるということがほとんどパフォーマンスのように機能していたのだと思った。語り部としてのパフォーマンス。●父親の亮二氏はTwitterでこの展覧会のことをアール・ブリュットとおそらく冗談混じりに言っていたけれど、その言い方はなにか親心が見える感じがする。朝吹真理子さんの絵はまずもって文人画なのだけど、文人画というとあまりに白樺派的な育ちの良さを想起させるので、親としてそう呼ぶのは気が引けるのだと思う。とはいえ単なる文人画の展示というわけでもなくて、朝吹さんという語り部の用意したインスタレーション的空間だった。あの場所を機能させているのは絵のひとつひとつの完結性や傑作性ではなくて、山陽堂という空間とその土地の歴史のスタディに基づいていること、それを朝吹さんがテクストあるいは口頭で語り、語りが伝聞によりひろまってゆくこと、のような空間と言葉のつくりかたにある。場に興されたフィクションのなかを、わたしたちは幽霊になって潜り抜けてゆく。●お昼にすてきなオーストリア料理とデザートを食べる(たべたものの名前がなにひとつ思い出せないけれど、オニオンスープ、あたたかな丸パン、酸っぱめのキャベツとベーコンのショートパスタ、チキンのフライつきのサラダ、あんずのクレープ、りんごとシナモンのケーキ、加えてコーヒー類)。●夕方、山内祥太「メディウムとディメンション:Apparition」展、昨晩17時のパフォーマンスを観た。桃色の水、硝子、顔をしめつけるラバー、偽の鼻、増幅する呼吸音、四足歩行……。●夜、うちを大急ぎで掃除して、ささやかなクリスマスパーティー。

2023/12/22

●夕方、移動しながら切れ切れにだけれど、大岩雄典さんのトーク「気密をつくる」を聞く。イヤホンがなかったので電話のモードにして電車の中で聞いていた。ぜんぜん機密じゃない。●夜、オペラ関連の読書会。物語の組み立てについての議論。

2023/12/21-2

●びっしりと描き出された天井画の写真を知り合いが投稿しているのを見て、大塚国際美術館に行ったのかなとおもったら、よく見ると海外旅行(ブルガリア)の写真だった。●横尾忠則の小説を少し読み、いわゆる有名人がネームバリューで書いてみたような作品とは全然違って面白いと思った(もっとも、わたしの知る限り、美術作家のテクストは大抵面白い。というのも、美術作家は、言葉がめちゃくちゃうまいひとと、言葉がめちゃくちゃ下手な人に二分される印象があり、当然前者の文章しか発表には至らないから)。●横尾の小説は、死後の世界を書こうとする小説のなかでは頭抜けて愉快なのではないか(そもそも、ぬけぬけと死後の世界を書こうとする小説家はあまりいないと思うけれど)。絵画は伝統的に死者のためにある、ということは比較的納得しやすい。しかし小説となると話は微妙なところで、もちろん喪失と語りはふかく関係しているのだが、どういうわけか、言葉はつねに生者によって語られることになっている(よく考えれば、あまりクリアには語れない主題だ…)。しかし横尾の虚構において言葉は100%死者によって発される(身も蓋もなく、小説の書き手がじつは死者であり、冥界で書かれた小説であることがわかったりする(「ぶるうらんど」))。それはたいへん優雅で痛快なことだと思う。●草間彌生の小説集も恐らく持っているのだが、読んだことがなかったかもしれない。キャリントン、内藤礼、荒川+ギンズ、ダリ、などなどのテクストは愛読している。

2023/12/21-1

●わたしは右と左をいかに覚えたか、意外なことにはっきりと記憶がある。小学校に入学した後にもたぶんたびたび間違えていたのだけど、スティリアンヌ(シチリアの女)というピアノ練習曲は右手のアウフタクトからはじまる。だれに教わったわけでもないけれど、スティリアンヌのはじまりのほうが右、とおぼえる。小学校2年生以降のことだ。●唐突に外語大のWebページでフランス語の文法を勉強しはじめる。フランス語は目で読むだけであればなんとなく意味がわかる気がするのだけど、なんとなくしかわかってないのにわかるかもと言ってばかりなのは良くないので、きちんとさらってみることに。おそらく抽象度の高い言葉は英語とかなり共通しているので、逆に日常的な動詞などをきちんと覚えていくとかなりできるようになるのではないか。●わたしが普通に読み書きおしゃべり翻訳ができるのは英語なのだが、さいきん縁があるのはフランス語、ドイツ語、スペイン語といったところで、なぜか英語をつかわない。かつて学んだドイツ語は普通に難しかった記憶がある(ほぼ初めて読まされた文章がニーチェだったからかもしれないけれど……)。あと、韓国語は日本人にとって簡単そうに見えて、じつはそうでもないようなところがある(たぶん。きちんと勉強が続いた試しがないのでわからないが……韓国語は視覚から入るより、会話からはじめたほうがいいのかもしれない。でも韓国語の発音もふつうに難しいと感じる、日本語の母音が単純すぎてどんな外国語にも太刀打ちできない)。まあ、あらゆる言語習得は難しい。当たり前のこと。●ほんとうは蓮實重彦『フランス語の余白に』で勉強したかったのだが、本の定価がやや高く、買ったあとに挫折すると落ち込みそうなので、外語大のWebページを最後までさらってからにしようと思う。Kindleの無料配信で序文だけよめるのだけど、語学書の序文とはおもえぬほど感動的である。いわく、「繰り返すが、この書物の特徴は、視覚だの聴覚だのを経由することなく、直接、肉体を駆使すべく作られていることにある」。つまり、書くこと、手と指の運動だけによって、この教科書はフランス語をまなばせる。話すことがやたらと偏重される世界のなかでこれほど潔い方針があるかしら。わたしもべつに話したり聞いたりしたいから学ぶのではなくて、目で見て読み、ともすれば訳したいから学んでいるだけ。そして、発音を度外視すれば、フランス語はさほど気難しい言語ではないような気がする。

2023/12/20

●ああさむい、こんこんとねむる熊になりたい。●崇高なものをいかにして語るか、を考えなくてはいけないように思うのだった。崇高、生に不可欠でありながら非合理な、認識の誤謬のようにひろがるこの高揚について。●何度か日記でふれている吉井こころ氏の作品をしらべていると、言語としてのガラス彫刻、たる作品について「言葉の向こう側のイメージや、難しい本を理解しようと考える過程をガラスに変換しました」という(おそらくご本人による)説明があるのを見つけて、少し熱がさめた。たぶんわたしが曲解していたのだと思うけれど、あのガラス作品はそれ自体が言語なのではなく、作者のなかに私的に興ったものをかたちにしたにすぎなかった。言語とは借り物であるか、借り物であることを志向するものであるように思うが、そのような側面はないらしいのだった。でもわたしが勝手に期待して落胆したからといって、作品のかたちの価値はかわらないだろう。たぶん、作家の言葉とは自立してなお独自の論理をひめた作品群であったと思う。●とはいえ、キャプションを見ると熱がさめる視覚的な作品というのは、この世に多すぎる(わたしの実感では、とりわけ写真に多い)。語らないほうがよい作家、ただかたちに邁進することでのみ世界をひろげることのできるタイプの作家は、確かにいると思う。それは言葉のたくみな作家にかれらが劣るという話では決してない。

2023/12/19

●平出隆『言語としての河原温』を手にした。白く慕わしい封書がとどき、そこに薄紙の冊子がしまわれている。はじめに気になったのはその冊子がいかにして綴じられているか、しかし、ためつすがめつしたあげく、結局のところじつはどこも綴じられてはいないことを知る。上半分にはいったスリットと下半分にはいったスリットが組み合わされて、紙が連なっているだけ。本は、すでに理想的なかたちをしていた。そのまま空をひらひらと飛んでゆけるような。いつでも軽く丈夫な1枚へと還ってゆくことのできるような。●わたしが本をつくりたいときに見るべきひとつの星座はこれだろう。似ることがおかしなことだとは思わない、造本の方法は普遍のほうにひらかれている(とはいえこのスリット式のつくりは美しすぎて、なんだか似るのをためらってしまう)。●わたしはいわゆる鈍器本といわれるような重鈍な本には本質的には興味がないような気がするのだった(必然的に鈍器性をともなったテクストもあるわけだから、鈍器本それ自体がわるいわけではない)。いつも思うのだけれど、Web媒体にある種の短命な言葉が流れていったところで、紙がもとより軽やかであるという事実が相対化され失われるわけでは決してない。紙はいまも昔も、軽くて、よわくて、よく燃える媒体であることを、わたしはいつも克明に覚えておきたい。

2023/12/18

●文体を拡張するためのもっとも基礎的な行為は、そらんじること。そらんじることのできるテクストは、義務教育の過程でおぼえてしまったもののほかにもいくらかあるけれど、それでもまだまだ少ない。引きうつすこと(できれば手書きで)も効果はあるにはあるけれど、限定的。ボルヘスの耳のことを思い出す。●夏も冬もできることなら液体しかたべたくないのだが、冬はことさらに美味の液体でからだを満たしながら暮らしたい。煮込み料理と生の食材には、文明の両極がある。数分ばかり炒めたり炙ったりしただけのたべものは、野蛮。

2023/12/17

●昨日みた吉井こころ氏の作品をまた少し思い出す。カイヨワにおいて石が語るように、人の手がつくりだした鉱物めいたガラスには形而上の言語がひそんでいるような気がする。鉱物の語りについては種村季弘も書いていた。ガラスの言語とは、鉱物に蓄積された自然の時間を人工的に偽装するときに発される。なんとも罪深くてロマンティックだ……。●澤直哉『架空線』(港の人)を読み進める。つくるならば一層真摯につくらなくては、本を……と思いながら、しんしんと降り込められたように読む。読みすすめるごとに肯うけれど、わたしはあらゆる今においてまったくまともに本を作れていないと思って悲しみがふかまってゆく。●澤直哉さんとはわずかに面識があり、かなり前のこと、わたしの書いた文章の旧字と常用漢字のつかいわけについてそっと指摘いただいたのを思い出した(ご本人は絶対に覚えていらっしゃらないと思うが…)。あのときのわたしは字体についての知識がいささかもなかったし、いまではむしろ便宜的な(つまり、常用漢字表として公示されているものの順守および意図的な少数の例外処理という)考え方ばかり身につけていて、むしろ国家がさだめた字体ではない字体について思考する方法をもたない。常用漢字表は、学識のない者がすばやく字体を選択するのにはきわめて便利なのだけれども、厖大に異体をもつ漢字のひとつひとつの正当性を国家が当然のようにさだめられるということを真にうけてはならない、と思う。それでも文部省のあのPDFをたびたび参照してさっさと形を決めてしまう、というわたしの知識の、生の、日常の貧しさ…。●死という選択肢がはっきりと目前にあったとき書かれた文章は硬いけれども媚がなかった。もうすべてそれでいい、わたしはいずれ死ぬけれども、その灰のふりかかるささやかな墓石としてそれが存在しつづければよい。かつてわたしのつくった本を装幀してくださった方のちいさな部屋は、清潔な死者の気配にみちていてわたしは息をとめたまま泣き出したかった。泣き出したいほどうれしかった。そのような本を近いうちに、もういちど、つくらなければいけないとわかっている。

2023/12/16

●東京文化会館で第九。終始和やかですてきな演奏だったが、外の気温がたかすぎて第九なのに年末感がない。藝大美術館で博士号審査展。閉鎖した言語としてのガラス彫刻をつくる吉井こころ氏の作品がとても印象的。夕方、神楽坂でたいへん手の込んだ食事をいただく。非常にひさしぶりに娯楽的な一日!●夜、NHKオンデマンドの宮崎駿のドキュメンタリーを見る。アニメ風(エヴァンゲリオン?)の映像の切り替わり、高畑勲の弔いとしての作品制作…。なんだか眉唾だなあ、と思いながらも、しっかり見てしまう。「君たちはどう生きるか」はただでさえ作品として独立させないような宮崎駿の半生とからめた解釈ゲームとしてソーシャルメディアでは消費されているのに、それを敢えて助長させている。だれも映画のことは覚えておらず、ただ宮崎駿を見ているだけ。

2023年12月15日

●手紙のようにうすっぺらの手製本をいくつもつくりたい、と欲望がつのる。本それ自体に切手を貼っておくりたい(これはおそらく平井隆流。その背後に瀧口修造やデュシャンのマルチプル……このような、書籍とマルチプルの境目についてまとまっている本はないのかしら。荒川修作『建築する身体』にはトイレットペーパー版があるらしい)。しかし最近書いているのは手紙にするには長めの文章ばかり…。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)