2023年12月の日記(前半)

2023/12/15

●ボルヘスは面白い(なにを当たり前のことを)。たんたんと読む。●百年の孤独が文庫化されるらしい(Netflixでドラマ化予定のため)。なぜか読書家たちが驚いているのをソーシャルメディアで目にする。文庫化、ふつうにただ喜ばしいことではないか。貧乏人にやさしいし(わたしは単行本もっているけど)。●ヨン・フォッセの邦訳が出るという。記憶がただしければ、予約注文すでにしていたような気がする。

2023/12/14

●読書をしながら寝落ちするのは至高だけれども、眠れないに眠るための読書(決して目の疲れることのないように、Kindleのダークモードで、白く大きな文字を表示する)もけっこうわるくない。

2023/12/13

●建物の出入り口で、まるで純真な鳥のようにガラスに激突してしまった。右の頬を眼鏡ごと強かに打ちつけ、すごく痛くてクラクラした。疲れているのかしら。まわりに人はいなかったので恥ずかしくはなかった。ただひえびえと硬いガラスだけがあった。じんじんと痛みを感じながら、ある種の(概念上の)純文学のクライマックスってこんなかんじだよね、と思っていた。起伏のない世界のなかにとつぜん稲妻のようにあらわれる強烈な痛み。こんな雑な類型化にとくに意味はないので、例はあげないでおく。頬と眼のまわりにはあざが出るかなと思ったけれど、なぜか大丈夫だった。●ひとびとが(というのはひとびとというよりわたしのことだが)現代美術を好むのは結局のところ、海を渡ってきた美術なるものの精神にひそかに生き続けている神的なものに心惹かれているだけなのではないか。ホワイトキューブにせよ、廃墟をつかった展覧会場にせよ、そこは無神論者のための礼拝堂として機能してしまう。空間に記号をあたえるとはそういうことだ。崇高さに打たれること、ロマンティックであるとはそういうことだ。べつにそのことが取り立てて悪いとは思わない。●無様にもガラスに激突したことにより、多少センチメンタルになってもそれがうまく相殺されるような気がする。生のためにどうにか補給されるべき喜びのひとつは創造の霊感で、もうひとつが崇高なるものへの接近であり、両者はわかちがたく結びついている。ニヒリストはとりわけ後者をみとめたくないかもしれないけれど。働くことで心を満たすと精神が貧しくなってしまう根本的な理由はここにある、というのも現実的な作業のひとつひとつは、近視眼的には崇高な体験ではありえないから(生きるとは近視眼的な状況の積み重ねにほかならない)。だからわたしは忘却しつづけなければいけない、段取りとか予定とか作業一覧のことを決して無意識の心に忍び込ませてはいけない。そんなものは心にとどめなくてもうまく機械的に処理する方法がいくらでもある。計画された痴呆症だけが、わたしを永らえさせることができる。1分前の自分はつねにもう他人。●能動的に忘れるということは論理的には不可能に思われるが、現実的にはいろいろなライフハックがある。●このようにして全く寝付かれない午前四時…。わたしは不眠そのものに悩んだことはないのだけれど、睡眠の時間帯をコントロールできず(いつでもどこでも熟睡はできないし、リズムはいつでも狂いうる)、それだから朝起きる時間を強制的に決められると結果的に不眠に陥ってしまう。社会がわたしを放っておいてくれたら健康でいられるのに。

2023/12/12

●ボルヘスの対談集を読んでいたら変な時間に寝落ちしてしまった(睡眠のリズムがさいきんおかしくて、いずれにしても変な時間に寝ちゃっていただろうと思うけれど)。それにしてもボルヘスのような書き言葉絶対主義であるかのように見えるひとが盲目であるとは、と改めて考え込んでしまう。澁澤龍彦が癌で声をうしなったのはなんだか納得のいく話のようにも思うのだけど。視覚的に文字が見えないという状況は、文学者の制作的思考においていったいなにを引き起こすのか。画家の一筆がつぎの一筆を決定するのと似たように、画面とキーボード、あるいは紙とペンがなければ次なる言葉を書き進めることを想像できない、という書き手が近現代以降ほとんどなのではないかと思う。●対話が録音されているとき、われわれは話すと同時に書いているのである、というようなことを当たり前のようにボルヘスは言った。ボルヘスによるかつて革新的であったアイデアの多くはもはや権威化、というか権威化を超えてネットミーム化・ネタ化されていて(「長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」とか)、たぶん多少なれどもブッキッシュなひとにとっては基本的に「わかる」ものであり驚きや違和感は少ないように思うのだけど、声が録音されているときわれわれは話すと同時に書いているのだという感覚は、目の見えることが前提となる本の虫的な感性とは離れた、かれの独自の文学的身体感覚に依っているような気がする。●言うまでもなく、ボルヘスが何と言おうと、一般的に書かれた言葉と録音された言葉は質的に異なっている。聞き書きによってつくられた書籍は、そう明示されていなくても、読めばただちにそうだとわかる。言葉にはつねに書かれ方の痕跡が残っているから。しかしある身体、たとえばボルヘスの身体においては、あるいはそうではないかもしれない。声があとから文字に変換されるのではなく、文字がそのまま声になるのだというように。身体に蓄積された濃密な書物の記憶が声を上書きしし、そのまま書物の発話として表れ出てしまうのだとしたら。この対談集の書名『記憶の図書館』とはそういうことか、と唐突に理解する。身体のなかの図書館によって話すひと…。●書籍の内容をオーディブルとして提供するとき、その先にあるかもしれない聞き手=読み手の身体と智識の極北を、ボルヘスが教えてくれるのかもしれなかった。

2023/12/11

●さいたま国際芸術祭のちかくの公園にあった野外彫刻は、女性像なんだけどハダカではない、すてきなコートを来てかばんを持った品のあるもので(女性像の野外彫刻がハダカじゃないというだけで評価が相対的にあがるのもどうかしらと思うけど)、好もしかった。そして、あらゆるものが仕組まれたスケーパーかもしれない芸術祭会場周辺で、このいかにも戦後美術という感じの野外彫刻だけはスケーパーじゃないという安心感があって、それもよかった。

2023/12/10

●目[mé]によるディレクションが話題の、さいたま国際芸術祭へ。「旧市民会館おおみや」が、ガラスのはめられた黒いフレームでにより、音楽堂/劇場としてのもとの間取りとはまったく異質の、ふたつのひどく入り組んだゾーンに区切られる。観客は互いに交差しないけれども透過しているふたつのルートを通りつつ、裏と表をたえず入れ替えるようにしながら空間を眼差すことを強いられる。会場には国内外の作家の作品が展示されているほか、スケーパーとよばれるひとやものが存在している。それはモノであれば偶然的ながらくたにみえるけれど作為を感じさせるもの、ヒトであればただの来場者や通行人、清掃員のように見えるけれどじつは展覧会のために淡く演技をしているひとを指す。スケーパーの存在により、展覧会の領域は曖昧化し、日常世界のなにもかもが展示に見えるような感覚を愉しんでみることができる。●わたしは中立的な観客ではないので、大岩雄典さんの個展「渦中のP」のことをただちに思い出した。でもこの連想はまるっきり恣意的なものではなくて、「渦中のP」の会場である十和田現美のサテライト会場「space」は目[mé]が手がけたものであり、その柿落としとなる展覧会が大岩さんのそれだった。展示のディスクリプションを省くが、「渦中のP」は結果として、この世に存在するおよそあらゆるPのつく単語がパラノイアックに目につくようになるという効果を観客にもたらす。だれかとだれかの作品は似ている、という印象の発話がその両者に対してほとんど生産的にはたらきえないということをわかったうえで、似ている、とあえて言ってみたくなるのは、作品のつくりや効果については共通するところがいくらかあるのに、その精神性はなんだかまるで異なるように思ったから(受け取ることのできる精神性もまた作家により演出されたものであるとわかりつつ)。●目[mé]のつくりだす虚実の境のとけだすようなワンダーランドはたしかに素晴らしくたのしいし、作家が試みているのは恐らく世界そのものをかれらの展示のようにひとびとに新鮮に感受させることなのだと思うが、その世界の存在を可能にさせるように作品内で丹念に育てられる認識(センス・オブ・ワンダー!)の正体とはいったいなんなのか。たぶんそれは日常生活において発揮されればあのありふりた(しかしつねに魅力的な)「この現実もすべて奇跡的な幻想なのかもしれない」という妄想へといきつくと思うのだけれど、もちろんそのようなかたちで展示を真にうけるひとはいない。まるでSCP(自然法則に反した存在をとりしまる架空の組織とそれにまつわる無数のエピソード)のような世界観だ、といって展示が消費されるとき、作為にみちた世界はひとつのテーマパークとして享楽されるのであり、だとしたらその認識が展示の外に持ち帰られることはないだろう。レディ・メイド、ハプニング、市街劇などが伝統的に有していた毒、反逆性、暴力性が和らげられて、現代美術において培われた方法が強力で安全で上質なエンターテイメントへと昇華される。まるでSCPのようだ、とだれもが口にすることのできる観客の成熟/爛熟が、それを支えている。学校で美術教育を受けずとも、現代美術の概念的達成のアイデアは、人口に膾炙したカルチャーのあちこちにすでに染み渡っている。現代美術の華麗なるマニエリスム。それはひとつの喜ぶべき事態であると思うのだけど、いったいこれより先になにがありえるのか想像するのが難しくなるくらい完成されていた。乗り越えるべきものなどもはやどこにもないのでは、となんとなく言ってみたくなるくらいに。

2023/12/09

●クリスマスのチキンかなにかの下拵えの方法を説明している英語圏のショート動画を見て、「(アンの夫となった)ギルバートは一家のあるじとして七面鳥の切り分け方を丹念に研究しよく心得ている」みたいな話が「赤毛のアン」シリーズのどこかで——たぶんそのような腕が試されるとされる新婚まもない頃——あったのをふと思い出した。なぜ切り分けるというだけのことが主人としての腕試しになるのか、いままであんまり理解していなかったのだけど、七面鳥の切り分け方のよしあしというのはつまり、YouTubeやショート動画で人気の、肉や魚の「捌き方」のことなのだろうとようやく合点がいった。切り分けではピンとこないけど、捌き方だと思ってみると、たしかに研究と技術が必要であることも理解できる。しかもギルバートは医者なので、それを研究するというのは人体の解剖学の勉強みたいなものであり、そこに上述のエピソードのおかしみがあったに違いない。●やや調子がわるく、3件あった予定のうちの2件をしょんぼりキャンセルした。鋼の心身でいられればよいのにとつくづく思う。●なんとかキャンセルしなかった3件目の予定とはある舞台制作のための読書会で、たいへん愉しかった。映画の世界ではノーランをはじめとしてさまざまに試みられてきた作中の時間のトリックを、伝統的な舞台にどれくらいとりこめるか、というようなところが特に。ほかにもいろいろ。

2023/12/08

●みなみしまさんが年末に行う24時間アートラジオ企画で朗読をしようという話をしていて、読むものについていくらか案を出したのだけど(ウィリアム・ブレイクを訳しながら読むというのも楽しそうだった)、この日記の2023年ぶんを全部読む、というのが良い気がしてきた。破天荒な企画に見えるけれど、一方でひそかにして穏やか。日記には、たぶん出かけた展覧会のことはすべて書いているし、SNSで話題になったトピックにふれていることもあるから、案外時事的に意味のあるおかしなコンテンツとなる。でも、まだ集計してないのだけど、少なくとも6万字くらいはありそうで、たとえば1分間に250文字読むとしたら4時間かかってしまう。●より正確に集計すると12万字程度だとわかった。読み上げると8時間かかる! 日記を禁止したら長編小説が書けてしまう…(そう単純な話ではないけれど…)。●きょう読んだ小説のなかでは、尾崎翠「こおろぎ嬢」がすごかった。尾崎翠のような才能がなぜあの時代に特異的にあらわれたりしたのだろう、ほんとうに恐ろしいことだ…。「竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が実のところは尾崎翠の末裔である」とセイゴオ氏の千夜千冊には書かれている。仮にそれがそうだとして、だとしても、尾崎翠はいったいどのような経緯でこの世を訪れるにいたったのか。なんとなく、西崎順三郎や佐川ちかのようなシュルレアルな感性と近いように思うけれど、当て推量でしかない。●わたしは漫画のことをまるでしらない、恥ずかしいくらいしらない、はっきりいって無教養なのだけど、そろそろ勉強しようかなどと考えたとしても、それはたとえば遠くのひとと交信するためにモールス信号を学ぼうとするのと同じくらいにはハードなことだ。文字と絵の混淆した、わたしには全く新しいメディウムのためにからだをつくりかえなくてはいけない。

2023/12/07

●瀧口修造の誕生日。●スペイン語関係の会合へ。日本人めいたひともそれ以外のひとも全員スペイン語を話しており、同時通訳のない話に関してはわたしにはまったくわからないけれど、わからないなりに、すべてがなんとなく慕わしい響きのように思われる。結局は英語をゆっくりしゃべって話をきいてもらうのだけど、(当たり前だが)英語をなめらかに話すべしというプレッシャーがないので英語の会より気楽な感じがする。というか、スペイン語を話せないわたしにだれも難色をしめさないことが、英語覇権の世界になれきっていた自分にはすこし新鮮な心地がする。だれもかれも優しい。コロンビアの甘くないスナックをはじめてたべる。イモの一種でできた皮にスパイシーな豚肉の餡をつつんだもの、コーンの粉でできた皮に豚肉とじゃがいもの餡をつつんだもの、それにパイのような甘い包み焼き。●この小説においてはなぜ最後に殺人(あるいは自死)の犯人や理由が明かされないのか、とある日本人が問い、それに対する作家(ピラール・キンタナ氏)の答えはかなり意外だった。なにかポストモダン的な美学のようなものに基づいているのかと思いきや、まったくそうではなかった。「コロンビアでは人が死ぬのはありふれたことで、いちいちその理由の追求などしないものだ」と。犯人探しの物語が無効化されてしまう土地がある! わたしはそれを聞いて感動しながら、感動の軽はずみさのことをわかってもいた。たしか作家はこのようなことも言っていた——わたしの作品をガルシア=マルケスに似ていると言う人がいますけど、だとしたら本当に読んでいるのか怪しいものです。マジックリアリズムとひとまとめにしてみたいのかもしれないけれど、わたしの作品にマジカルなところはない。コロンビアではそれがリアルであるというだけ。●仕事でなぜかまったく英語をつかわないのでフラ語でも勉強しようかしらと思っていた矢先の出来事で、我ながら単純だけれどスペ語にちょっと惹かれてしまった。どちらもやればいいのかもしれない。●ピラール・キンタナ氏と、それから会場でたまたま出会ったLさんというコロンビア人の女性と3人で写真をとってもらった。わたしは久しぶりに飲んだワインのためかいつにもましてぼんやりした表情をしている。キンタナ氏はぎょろりと真顔でレンズを見つめ、彼女のサイン本を持ったLさんは華やかな笑顔。キンタナ氏は途方もない半生を送ってきているにもかかわらず——いやそれゆえに?——意外に小柄で、わたしとあまり背丈がかわらなかった。よく考えれば、旅人であるには小柄であるほうが都合がよい、そのことはわたしもよくわかっている(オルガ・トカルチュクもそう書いている)。●Lさんとはもう会うことはないかもしれないけれど、素敵なひとだった。パートナーは日本人だというので、コロンビア在住邦人と結婚されたのかしらと想像していたけれど、かれはコロンビアへの旅人だったのだという! なんてロマンティック、とわたしは思わず言う。

2023/12/06

●夕方、朝吹真理子さんの個展「道の時間」にでかけた。途方もなく素敵なひとときだったけれど、ここに詳しくは書かない。説明するまでもなく朝吹さんは言葉の作家で、絵を制作されるようになったのはここ数年のことだという。けれども言葉、眼、時間の感性は、空間のつくりにそっくりあらわれるのだ、なぜなら空間はほかならぬ言葉と眼と時間によってつくられるから! ●ナンバリング、と呼ばれる文房具?をはじめてつかった。がしゃん、がしゃんと紙にスタンプを押してゆくごとに数字がインクリメントして、つぎつぎとページ数などを記載していくことができる。手製本のエディション番号なんかを書き込むのにぴったりの、慕わしくアナログなマシン。●夜、赤エビの刺身を剥く。手がぬるぬるになってかゆくなるまで剥きつづけ、皿に盛ってたべてみるとたいへんおいしかったけれど、1匹で飽きてしまう。

2023/12/05

●ホットサンドメーカーで夕飯をつくった。工夫したホットサンドよりも工夫していないホットサンドのほうがおいしい。●鈍重で保存性のたかい書物に価値があることは前提として、印刷物には読み終えられたあとさらりと捨てられうるという暫定性にかかわる力量もある。一般的には暫定的なコンテンツは紙のうえでは絶滅してWebに置き換えられるということになっているけれど、ほんとうは、紙の暫定性はWebのそれとはまたすこし別の意味をもっている。読んだら必ず捨ててくださいとか、あるいはオノヨーコの詩集みたいに燃やしてくださいというようなコンセプチュアルな話ではなくより素朴に、手から手へ受け渡されるけれどもそう寿命の長くないうすっぺらの印刷物らの、やろうと思えばいつでもぱらりと捨てられるという特性は保存性とはうらはらの紙というマテリアルの美点であり、ときにtentativeさゆえにこそマテリアルの価値を持ちうる。暫定性に覆われたもの、かんたんに更新されうるもの、つまりそれはプロセスのなかの一段面のスナップショットだ。じつはふつうのかたちをした書物すら、刷り直されるごとにわずかな変更を受け入れているのだが(誤字は訂される)、あまり大っぴらにされない。

2023/12/04

●澁澤龍彦「マドンナの真珠」を読んでみたら、かなりすごいテクストだった。澁澤の小説はよくもわるくもパスティーシュが極まっているはずだけれど、このお話はその背景をまるで考えないで済むくらい細密に描き込まれていた。この短編だけ独立させて1976年に「立風書房より池田満寿夫の銅版画入り限定本として刊行」したことがあるそうで、いま古書をしらべてみると8万円ほどの値がついている。どうやら限定185部の出版だったそう。●ホッケの一夜干しと焼きブロッコリーによる献立を「斎藤幸平メニュー」と呼んでいる(避けがたく失礼な響きになってしまうけれど、あくまでミーハーな気持ちでそう呼んでいる)。いつだったかNHKのドキュメンタリー番組で、斎藤幸平一家(父母から娘までの三世代)がこのような献立で食卓を囲んでいるのを見て以来、斎藤氏といえばホッケの一夜干し、というすっとぼけた短絡がわたしにおいて結ばれている。周知のとおり、畜産業のなかでも牛肉の生産はとりわけ環境に悪いので、かれは牛肉をたべない。一方で、ブロッコリーは栄養豊富で環境にやさしい食材であるという。わたしはそもそも生命を食うことが非倫理的だと思っているので、どうせ食らうならばせめてなにを食らうのか考えるべし、という考え方には基本的に親しみを覚える。しかし食べないわけにはいかないのだから、完全に倫理的な食生活などありえない…(そもそもあらゆる場面で人間は倫理的であるべきだとはもちろん思っていないのだけど、食についての倫理を気にすることはわたしにとってほとんど趣味、というか癖のようなものなのだった)。●昨晩、笠井康平『10日間で作文を上手にする方法 Day1-Day6』(いぬのせなか座)を読んでいた。Twitterに書いた感想を転載すると、「文章論かと思いきや冗談抜きの文章論の論でした。上手に書こう/書かせようとしている書き手の言葉の奉仕する先を敢えてあからさまにしてしまうような。ビジネスとして/あるいはたぶん善意も込みの文章論がなにを売りさばいているのか(文章講座とは浅からぬ縁があり、何百時間もかけて作品講評をしまくっていた身としては耳の痛い話だった)。といってもこの本が試みているのは文章論の欺瞞を暴き立てるということではなくて、言語に依存してしか生きられない(平たくいえばだれもがそのはず)わたしたちが避け難く必要とする言葉のスキルにまつわる粘ついたあれこれをドライになりすぎず、さりとてひどくエモーショナルになるのではない方法で述べることであったのだと思う。にしてもDay 10へと至るまでの展開がむしょうに気になるという点でしっかり読まされてしまった。ときどき挟まれる謎の引用の正体もしれず…」「文章にかかわるひともそうだけれど、とりわけ教育にかかわるひと(教育するほうもされるほうも)に必要とされる本だと思った」。●これは最近よく話題になっている「純粋観客」の話とも関わるのだけれど……などと言い始めると話が長くなってしまう。純粋観客のいない表現のコミュニティが必ずしも悪いものだとは思わない(だれもが作り手である集団にはたしかにお金は集まらないけれどお金にならないゆたかさの可能性があるはずだ)けれど、制作のコミュニティが存在することをいいことに文章術的なものが無批判に権威づけられてよいわけではない。結局のところわたしはやたらと読んで書く仕事ばかりしているから、(自分には権威などないけれど、それでも)かならずしも熟練されていない文章にたいして評価を加えることにかかわるさまざまな現状認識(反省)をはっきりと持つために『10日間で〜』を役立てることができる。

2023/12/03

●久しぶりに腰を落ち着けて黙々と事務作業をする。いくらかの営業、請求、納品。福島の独立系書店を見つけたいのだけどなかなか探し方がわからなくて苦労する。黙々と作業したけれどまだ返信すべきものごとはいろいろ残っている…。●お昼、卓上でつかえる新しい電気式のホットサンドメーカーをつかう。これまで、IHコンロ上でつかえるホットサンドメーカーを使っていたけれど、プレス感や焼け具合がずっといまいちだった。新しいホットサンドメーカーは、ちょっと場所をとるけど、薄切りの食パンがずっしりパリパリになって、きれいな焼き色がついておいしい。満足し、アールグレイをいれる。●半年くらい前に途中やめになっていた編み物を発見し、4、5段くらい編み進める。モスグリーンの細い毛糸(Amazonで適当に買ったらものすごく細かった)をただ長く平らに編み続けているだけで、編み終えたところで特になにも完成しないのだけど。毛糸が細いので、編んでも編んでもなかなか長くならない。無目的な徒労…。そんなに手が慣れているわけでもないので、いわゆる「ながら作業」もできない。本当は毛糸じゃなくて華奢なレースを編みたいのだけど、レースはけっこう難しいので気合いを入れないとできない。●夜、サーモンのきのこクリームソース。わりとしっかり手順をふんで料理をしたつもりだったのに味はかなりふつうだった。といっても、わたしは料理をつくることはすきだが食べるときにはほどほどに不味すぎなければいいと思っているので、あまり落ち込まない。●文学フリマですぐ売り切れになった小冊子『継続のためのトレイントーク (共喰い的制作考)』(伏見瞬&河野咲子)をnoteで販売開始する。しばらくすると佐々木敦さんが(この冊子について)「文フリの時は存在にも気づいてなかった、、」と呟いていたのでなんだか面白くて笑ってしまった。当日、販売ブースを連結していたばかりか、宴会までいっしょだったというのに、伏見さんが渡すのをすっかり忘れていたらしい。つぎの機会に渡してもらうことにする。

2023/12/02

●早朝に寒さで目が覚めた。暖房はつけっぱなしなのになぜ、と思っていたら窓があいていた。その前だったか後だったかわからないけど、胎児にかかわる悪い夢を見た。●国立近代美術館へ。企画展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」、コレクションによる小企画「女性と抽象」、所蔵作品展「MOMATコレクション」を見る。コレクション展に日和崎尊夫による繊細な木口木版があり、わたしにはこちらのほうが棟方志功よりも好もしかった(完全に好みの問題だけれど)。良い版画を見るとなおさら本をつくりたくなる。●棟方志功は人間すらも自然由来の平面的デザインモチーフに押し込めてしまうようなところがあって、それは女性の美を理想化したよくある絵画よりもさらにやばいのではないかしら、というようなことを曖昧に思った。人物画以外は朴訥として、色遣いももっぱらかろやかでわりとかわいい。●神保町の古い純喫茶でチーズケーキとともに苦いコーヒーを飲んだあと、上野に移動して東京国立博物館の「横尾忠則 寒山百得」展を見た。スピード感のある100枚の油画近作。参照に次ぐ参照…。●それから藝大まわりを散歩し、ふと気づくと耐えがたい疲れと身体の痛みに襲われていたので、悪い風邪の引き始めかしら、と心配しながら上野の古い喫茶店に入って休憩する。なぜかコーヒーや紅茶に並んで昆布茶がメニューにあり、なんとなくそれを注文した。昆布茶を飲み終えた途端、ものすごく眠たくなって、本をひらいたまま失神したように意識をうしなう。古めかしい赤いソファはふんわかとして、あたりはほどよくがやつき、空気は湿って暖かかった。閉店ですよ、と店員さんに言われるまで昏々と1時間くらいねむりこけ、起きたときには驚くほど体が軽くなっている。紫式部であれば六条御息所の霊がひとときばかり憑いていたのだと言うだろう。●御息所の霊がすっかり去ったので、上野の吉池(魚屋/スーパー)で、山口県産のふぐの一夜干しと、福山産のちいさなくわいを買った。帰ってからくわいを素揚げにし、フグ鍋をつくってたべた。なぜか買い物のノリが相当にお正月めいている。

2023/12/01

●何日か前にふらふらと歩いていたとき、ヘッドライトをぎらつかせながらまっすぐにこちらに向かってきている乗用車と目が合った。目が合ったのに、わたしはなぜか立ち止まらずになんとなく通りを渡ってしまった。金井美恵子の小説の一節を思い出す。《あの少女は死んだ。まったく無造作に死んでいった、まったく。》夕闇を切り裂いてクラクションが鳴る。●この小説のことはべつの文章に書いたことがあるからよいとして、この通りを渡ってしまいたくなるのは最近その通り沿いにスーパーマーケットができたからだ。唯一の出入り口が、横断歩道のないT字路部分にある。疲れ切って空腹のまま、Tの縦線にあたる部分を歩いていると、なんとなく突き当たりのTの横棒部分に横断歩道を幻視して、そこを横切ってしまう。怒りのこもったクラクションが鳴りひびく。まもなくこの場所でだれかが怪我をしてしまうだろう、べつにわたしだって自ら儚くなりたかったわけではぜんぜんなくて、ただお腹がすいて判断力が鈍っていただけだった。●お昼前、わたしと話した直後にしくしくと泣き出したひとがいて、(わたしが話したことは確かにわりと悪い報せだったのだが)だとしてもそれほど救いがたく悪い報せだったかしらと、泣いているひとからそろりそろりとにじり去ったあとに考えていた。泣かれてしまったからにはじつは思ったよりすごい悪いことをしていたのかもしれないと遡及的にふわりと落ち込みかけたところで、だれかがわたしの耳元で言う。じつは、あのひとの泣きだした理由はね。●このようにしてわたしの日常はまるでウミガメのスープなのだった(人肉のスープはそこかしこに遍在している…)。●夜、1年ぶりくらいに髪を切り、メッシュ部分をふつかめのボルシチのような色に変えた。かなり伸びていたので、肥ったうさぎ3匹分くらいの髪の毛のかたまりがふわふわと床に落ちた。シャンプーをしてもらいながらわたしはもうひとつのウミガメのスープのことを考えていた。国立国会図書館の地下に理容室があるのはなぜか?

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)