2 HSS型HSP

旨粥(うまがゆ)
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公開:2023/12/1

偶然は偶然ではなく運命と感じたほうが幸せに生きられる。

旨粥は今まで精神科などに罹ったことはないが、「多分おそらく自分はHSS型HSPと呼ばれるものなのではないか」と認識している。

HSS型HSPというのは、「感受性が豊かで、敏感な気質を持った人」の中でも、「刺激を求めてしまう人」らしい(インターネットで調べた、というか偶然知った)。

そもまずHSPというものの他に、HSEというものもある。これは「繊細ではあるが、人との交流を避けない人」のことをいう。一方のHSPは「繊細で、人との交流を避けがちな人」のことをいうのだそうだ。

旨粥は人との交流を避けがちなので、まず間違いなくHSPである。避けがちと言っても、絶対に交流したくない!というわけではなく、わざわざ交流しに行かないということだ。

そして更にそれを二分割するのがHSS型であるか否かだ。これがいわゆる「自ら刺激を求めに行く」「繊細とはいえ刺激はほしい」部類の人のことらしい。

旨粥が自分をHSS型HSPであると認識する理由は、旨粥の趣味に起因している。

あまり詳細に喋ると旨粥の中身がバレるかもしれないので避けるが、旨粥の趣味には「物語を読む」ことで成り立つ趣味が多い。

物語には設定がある。たとえば「親を怪物に殺された青年が、怪物に復讐する」とか、「記憶を失った少女が、大切なものを探しに行く」とか、そういうのだ。

HSPにも、衝撃の大小、どういうものに刺激を受けやすいか、などの個人差があるだろうが、旨粥は多分かなり酷い方の部類で、こういう設定一つ一つに海が割れるレベルの衝撃を受ける。たとえば「親を怪物に殺された青年」なら、親を殺されたときの絶望や復讐心、怪物を倒すまでにで出会った仲間への厚い信頼や葛藤など、その青年の精神を受け取って、めちゃくちゃいろんな感情を抱いてしんどくなってしまう。

しかも同時に複数人の精神を受け取れるので、青年と、親と、怪物と、仲間と、それを見る世間の人々と…など、この物語が終わるまで刺激が無限に続く。

しんどいのだから避ければ良いのだが、HSS型の難点はその刺激を欲してしまうということだ。多分めちゃくちゃ簡単に言えばドMなのだと思う。ただ繊細なので刺激を受けるとしっかり傷つくし、寝込んだりする。馬鹿なのか?と思うかもしれないが、マジなのだ。

とはいえこれらは趣味にできるような、それこそHSS型になりやすい刺激であり、逆に言えばまだ欲する余裕があるレベルの刺激だ。正直に言うと、旨粥は感情の波にしんどくなりながらも、そういった感情を抱ける自分をまぁまぁ気に入っている。

しかし中にはそうではない、マジでしんどい刺激というものがある。旨粥が一番苦手なのは、人間の『負の感情』である。

これは趣味の中の話ではなく、現実の対人関係間で生まれるものについてだ。人との交流を避ける傾向にあるHSPの旨粥とは、そもそも合わない刺激なのである。

例えば、ここに以下のような人物がいたとする。

  • a.ミスをした

  • b.aの先輩

  • c.リーダー

  • d.特にミスはしていない

  • 旨粥(特にミスはしていない)

そして状況として「aがbに怒られていて、その場にc,d,旨粥もいる」という状況だったとする。

  • b「ここ違う、前にも言ったよね」

  • a「すみません」

  • c「…」

  • d「…」

旨粥「(あ〜〜〜しんどい〜〜〜!!!)」

空気の重さ…各々の思惑…怒られているのが旨粥でなくとも、怒られている人に何ら思い入れがなくとも、めちゃくちゃしんどくなってしまう。その場から逃げたい。

怒られているのは自分じゃないのだから、そんなに気にする必要はないのだが、HSS型の難点なのか何なのか、無駄に頭に入ってきてそれでいっぱいになってしまう。

これはあくまでもたとえの一つなので、これの他にもその場にぶっ倒れそうになるような刺激があったりするが、今は思いつかない上に、思いついたら思いついたで今ここでぶっ倒れてしまうので、これ以上はやめておく。

全てのHSS型HSPがこうである、とは勿論言わない。あくまでもこれは旨粥の場合の話であるし、序盤にも言ったように、人によって様々な感じ方があると思う。

ただ、世の中には、周りから見たら「何で…?」と思うような性質を持つ人間がいるのだ、ということを理解してもらえたら嬉しい。多分本人も自分自身の性質について「何で…?」と思っている部分の方が多い。

「自分のことは自分が一番分かる」とは言うが、その限りではないことも往々にしてある。旨粥はそんな自分について、こうして言葉にすることで、できるだけ理解したいと思っているにすぎないのだ。

@umagayu
人間は、世の中に向けて文句を言う。 それらは所詮なんの意味もなさない戯言だが、文章にすることで、自分を客観的に見るための貴重な材料になる。