薄く目をあける。直線に過ぎていく風の音は暗く、延々と続いている。車窓をわずかに下げてから、音は肥大化していた。まぶたをもう一度おとすともあけるともどっちつかずな細い視界でじっと音を聞いていた。夜の道だった。たまに対向車が通り過ぎるたびに白い光が夜の中で閃いていった。じっと意識が浮かんでくる間に、高速道路と認識した。やがて、つい先ほどまで眠りについていたと自覚した。肌にふれる服やにおいを識別していくうちに肩に食い込むシートベルトを煩わしく感じ、体勢を静かに変えようとすると、運転席から、起きた、とつぶやかれた。隣に視線をやる。運転席に座っているのはJ兄さんだった。J兄さんと呼んでいるのは彼だけだったが、J兄さんは、彼にJ兄さんと呼称されることをいたく気に入っていた。
「起きてない」
「堂々と言うやん」
J兄さんは笑って、お茶あるで、と続けた。うっすらと流れる音楽は十数年ほど前に流行っていたポップミュージックだった。音楽に興味がなくても記憶にしみつき、年月を経ても自然とサビを口ずさめるほどに町の中をかつて埋め尽くしていたメロディは随分空洞になって、走行音が抜けていく。ぬるい風が、やや冷え込んだ車内の空気と攪拌されていく。運転席と助手席の間のドリンクホルダーに手を伸ばした。緑茶とアイスコーヒーが並び、コーヒーの方は中途半端に蓋が閉まっていた。まだ封を切っていない新品のペットボトルを開けてゆっくりと飲んでいると、広げてあるポテトチップスに気付いて続けざまに齧り、塩のついた指を舐めた。
「窓閉めた方がいい? うるさい?」
「ううん。別に」
「そっか」
「な、俺どんぐらい寝とった?」
「わからん。ずっと寝てた。起こすのも悪いしずっと寝かしてた。もう起きんかと思った」
寝かしてた、という言い振りが、赤ん坊を寝かしつける、とニュアンスが似てる、と彼はぼんやり思った。声の温度があたたかいから。
ハイビームの光を反射して、白いガードレールが照った道が暗闇との境目で、夜空よりもずっと暗い山々が遠くに見える。今は開けた道を走っていて、道路の外側に目を向けると眼下に点在する家のあかりか街灯か、人のありかを示す光源があった。こんな山奥にも人は住んでいるんよな、と彼は胸の奥で感心するだけで、口にはしなかった。あの小さな光の灯る場所からも、高速道路を俊敏に往来する光が点滅している。
彼は、行き先がどこなのかを忘れてしまった。あるいは伝えられておらず、知らなかった。昔流行った曲は目覚めて間もなく浮かびあがってきたのに、この車にどういう経緯で乗ったのか、なぜJ兄さんが運転しているのか、根本的な記憶が出てこなかった。そんなはずはないと考えてみるものの、どうにも脳が重く、全身が怠く深い灰色に沈み込んでいた。シートベルトは枷で、車は檻のように感じられた。けれど居心地は悪くなかった。
「そういえばな」J兄さんが言った。「寝てる間にケーキ買うたし、次のサービスエリアで食べへん?」
「ケーキ?」
「ん。けっこうな、豪華なタルトやで。奮発したった。あふれんばかりのな、フルーツが乗ってんねん」
「なんでケーキなんて。なんかあったん」
「なんでもかんでも、ええやん。食べたい思ったし、買うたんや。あれやで、ケーキってなまものやしな、はよ食べなあ不味なるわ」
話している途中でJ兄さんは窓を閉じた。風が急に遠のき、ちょうど音楽は途切れた。
「J兄さん」
「おん」
「今、ここどこやっけ。どこいくんやっけ」
「どっか遠いところ」
「遠いところ?」
「そ。どっか遠いところに行きたい言うたから、行くんや」
「そうやっけ」
「行きたい言うたんはそっちやで」
「そうやったっけ」
そんな気もした。音楽が始まる。聞き覚えはあったけれど、名前が出てこなかった。彼は手癖でポケットを探りスマートフォンを取り出すが、あらゆるボタンを押しても画面は暗いままだった。
「せやったら、連れて出てったろう思ってん」
車は左にウインカーを出して道を逸れる。やがて沈黙しているサービスエリアにおだやかに駐車した。エンジンが止まる。彼はゆるく縛りつけられたまま、外を眺めた。点々とトラックが停まっていた。サービスエリアの売店はすべて閉まっていて、自動販売機やトイレの青白い電灯が妙にまばゆかった。
J兄さんは先んじてシートベルトをはずし車内灯をつけ、後部座席に身体を伸ばすと、椅子に置いていた小さな白い箱を引き出した。奇跡的にひっくり返ってへんわ、と中身を確認して笑った。解体された箱には二つタルトケーキが顔合わせしていて、色鮮やかで多様なカットフルーツが隙間を一切生まないように配置されて光沢を放っていた。
「どっちも同じやん」
「あかんかった? 一等良さそうに見えてん」
「わからんけど、こういうのって違うの選んで、どっちか好きな方選ぶもんちゃう」
「それもええけど、あれやん、たとえばチョコレートケーキとショートケーキがあってどっちもチョコレートケーキを食べたいってなるやん、そんでじゃんけんとかあみだとかするやん、あるいは譲ったりするやん、そんでもショートケーキになった側がしゅんとしかねんやろ。こうしとけば、平等でええ」
「俺はショートケーキでもええけどな」
「そういう話ちゃうねんけどな」
「うん」
彼は頷いてから、タルトケーキに視線を落とした。違う種類を買って選択肢を作るのも、同じ種類を買って同じだけの幸福を望むのも、どちらであっても優しさだと思った。でも、たとえば自分が生クリームが苦手だとしたら、チョコレートを選択できる余地がないのはつらいのかもしれないとも思った。
「ほれ、好きなの選びい」
「結局選ぶんやん」
J兄さんは彼の瞬発的な返答にからから笑い、ええから、とケーキの箱を差し出す。彼はしばらく二つを見比べ、特に大きな違いは発見できなかった。手前の方を選んだ。
「フォークも皿もないから手掴みな」
「こんなん手で食うんは無理やろ」
「無理いうことないで」
ほら。
J兄さんはケーキのフィルムをはずすと、タルトの土台を手のひら全体で包むようにして掴み、喉の奥がよく見えるほど大きく口を開けてケーキの先にかぶりついた。先端部分にまで生クリームやいちごやブルーベリーなどの果物が満たされていたが、J兄さんの口は果物と果物の間をちょうどかきわけて分断した。土台のかけらが塵となってはらはら落ちてJ兄さんの腿や車のシートに着陸していった。ベージュのこまかな花弁だった。うっま、とケーキを噛み締めながら感嘆するJ兄さんの、唇の横に付着した白いクリームを彼は見つけた。
真似をして彼も右手でかろうじて掴み、バランスをとる。できるだけ汚れないようにと左手を添えて慎重になるが、口に近づけるほど実物の圧倒された。どう食べるべきなのか見当がつかなくなりながら、逃れられずに思い切ってかじった。指先にクリームの湿ったつめたさがふれた。果実が頬の裏ではじけた。
「美味いやろ」
「うん」
「この生クリーム甘すぎなくてええな。子どもの頃食べたショートケーキよりも、よほど美味いわ」
「ショートケーキ嫌いやっけ」
「あんまり好きくないな。嫌いではないけど、あえて選ばんな」
J兄さんはさほど苦戦する様子もなく、というよりはさして気にもしていないような手つきで躊躇いなく食べ進んでいった。さっさと食べていくものの、一口含むたびに、うま、あま、と、確認していくように感想を漏らした。
「てか、夏って終わるもんなんやな。そらそうやけどさ」
ひとりごとなのか話しかけているのか曖昧な声音だった。先ほど外から入ってきた夜風が、今も窓の外で吹いている。
「昼間はまだ暑いけど、夜はだいぶ涼しいな。秋やん。ほんま、暑すぎて、もう、夏は永久な気がしてた。意外と過ぎ去るもんやな」
「ほんまに暑すぎやったな、今年」
「うん。たぶん来年も暑いんやろな」
「来年か」
彼は呟く。
「嫌やな」
胃にぽとりぽとりと噛み砕かれたケーキが流れていって、胃は、甘さを感じずに平等に溶かしていて、彼はそのあたりに微弱な痛みを感じとり、汚れた手をあてた。
「ごめん、トイレ行ってくる」
「あ、うん。いってらっしゃい」
縛っていたシートベルトをあっさりとはずし、彼は扉を開いた。持っとくで、とJ兄さんは手を伸ばし、まだ先端しか消えていないタルトケーキを受け取った。彼は夏と秋の狭間に浮かぶ生ぬるく涼やかな夜を歩いた。サービスエリアには他に誰もいなくて随分前に捨て置かれたような空気が漂っていたけれども、静かな建物の中を窓ガラスごしに覗くとうっすらと光を浴びたお土産やテーブルがしんと佇んでいてそう古くもなく、トイレは整備されていた。便器に腰掛けて腹部に力を入れたが、頼りなく放屁するだけだった。太腿のあたりから胃にむかってじっとかぼそい電流が走り続けているように感じるばかりで、ほとんどなにも放出されず、ただ、しばらく一人で座り込んで深呼吸をしようとして、悪臭を感じ取ってやめた。時間をかけるうちに痺れはやみ、諦念とともに立ち上がる。個室から出て鏡の前に立つと、首周りがすっかりよれて大きく広がったTシャツを着ていると今更気付いた。そしてその皺と似たような表情をしていた。洗面台に倒れ込むようにして背中から力む。声が濁る。溶けた生クリームや潰れた果実のまざった甘い酸が細く吐き出される。額際に汗が浮いた。
「おかえり」
萎んだ身体を引きずって駐車場に戻ると、J兄さんは車外でスマートフォンを操作しながら待っていた。車内灯は消えて、サービスエリアの無機質な光が遠くから照らしている。口許にはまだ生クリームが付着していた。
「クリーム、ついてんで。口んとこ」
「ん。おお」
疲れた声で彼が伝えると、ようやく拭き取られた。
「外、きもちいな。ずっと車おっても体が凝るわ」
J兄さんは体を上へぐっと伸ばした。重たげな髪がゆれて、青い影がよぎる。
「てきとうに休んで、また行こうや」
「うん」
「あ、帰ってもええけど」
「ううん」彼は応えた。「しばらくは、いいや」
「せやな」
高速道路を走り抜けるエンジン音が、彼方で近づいては遠のく。彼は鼻を膨らまし、夜の息を深く吸い込んだ。彼の横顔を一瞥し、J兄さんは微笑んだ。
「逃亡記念と俺たちここに生きてる記念に、写真でも撮っとく?」
J兄さんがスマートフォンを持つ手をあげた。画面はすでにカメラモードに切り替わっている。
「なんでそう、いっつも急に話を切り出すん。てかなんなん、ここに生きてる記念て」
「ええからええから」
「いややわ恥ずかしい」
「ええやんせっかくやし」
彼は身を捩ったが、J兄さんの強い要望にあっけなく降参した。インカメラがとらえる映像を表示する画面には暗闇に埋没した二人の顔。彼は笑うように促されてもうまく笑えない。フラッシュがたかれる。夜のきれはしに、ばちんと一段強い光がまたたいた。それは他の誰の目にも留まらない、一瞬の輝きだった。二人とも咄嗟に目をつむったが、カメラはちょうどその直前を切り取った。写真を改めて確認すると、肌が発光しているように強烈な白さになっていて、画質は荒く、どこで撮っているのかまったくわからず、肝心の表情も光に塗りつぶされて笑ってるのかしかめつらなのか無表情なのかその全部に見える、散々で奇妙な一枚になっていた。おかしくて笑いの止まらないJ兄さんにつられて、彼の頬はゆるんだ。瞼がまた重たくなってきたから、あとでまた寝よう、と思った。