上高地、人ならざる優しい気配

わたし
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公開:2023/11/27

2023年秋、一人で上高地に行ってきた。

私が旅行をするときは大体一人で行くから、一人でという記述は必要ないかもしれない。ツイッター(X)で趣味を通じて知り合った友人が大好きな地で、「⚪︎⚪︎さん(私)もいつか絶対行ってみてくださいね」と以前から言われていた場所だ。

私は人からお勧めされたもの・ことは、自分が興味のあるものでなければ基本的には動かない。けれど、彼女の口から語られる上高地はひどく魅力的で、いつか行ってみたいと思うようになった。

転職活動を始めた夏頃だろうか、当時の私は第一志望の会社に受かる気満々で、上高地は内定をもらえた自分へのご褒美旅行にしようと思い、まだ結果も出ていないのに10月の予約を取った。結果として第一志望にもリファラル採用の機会をもらった会社にも落ち、傷心の身で上高地に行くことになったのだが。

気分は落ち込んでいても旅行当日の日はやってくる。数日前に上高地で起きた熊襲撃事件のニュースを聞いてすっかり弱気になった私は、熊よけスプレーと熊鈴を携え、大きいリュックを担ぎ、夜行バスに乗った。眠れたような、眠れなかったような。少しだけ長く感じる夜を過ごしたら、朝方には上高地についていた。

時刻は午前五時。あたりはまだ暗く、自分がどこにいるかさえもわからないくらいだった。とにかく寒かったので、私は持っていた上着やズボンを重ね着し、段々と朝を迎えていく上高地の道を歩き始めた。

歩き始めて数分ほどで、河童橋が見えてきた。その奥に見えるのは荘厳な自然だった。朝日が悠然とした山の尾根を照らしていく。雲の影が時折山の上にかかって、ゆったりとした空気が流れている。ああ、ここが上高地なんだ、と思った。

あまりにも美しく、あまりにも人を穏やかに迎える上高地に私は目を奪われ、しばらく河童橋の奥に見える穂高連峰をぼうっと見つめていた。

しばらくすると朝日が上り、周りが明るくなった。そろそろ食堂が開くころだと思い、食堂に入って蕎麦をゆっくり食し、改めて河童橋を渡る。

清流の音が鼓膜を震わせ、綺麗な空気が呼吸と共に肺に入ってくる。こんなにも澄んだ空気を吸ったのは久しぶりで、心も身体も喜んでいた。

快晴。上高地は天気に恵まれた時、本当に美しい景色を見せてくれる。

幼少期から山登りをすることが多かった私にとって、山は奥深いものだ。それぞれ異なる空気を纏っている。人を優しく受け入れるような雰囲気を持つ山もあれば、厳しい空気を纏う山もある。或いは、その土地そのものが人を拒むような空気を醸し出している場合もある。自然は時として人に優しくない。何に対しても平等だから。

では上高地はどうかと聞かれたら、即答で「とても優しい土地」と私は答えるだろう。優しい。これに尽きる。ただ優しいのだ。

奥深い自然の中に足を踏み入れれば、そこはもう人間の世界ではなく自然が統べる世界だ。途端に自分が「お邪魔している側」になる。自然という大きな生き物の体内に入って、一歩一歩静かに進んでいく感覚がする。

けれど上高地は、決して冷たさも厳しさもない。よく来たね、とこちら側を労ってくれるかのような温かい優しさが場を満たしている。

この感覚はもうそういうものとしか言いようがなくて、あの土地に足を踏み入れないと理解できないと思う。けれど、上高地に行ったことのある友人に旅行の感想の一つとしてこの話をしたら、彼女はとても嬉しそうに「だよね!」と同意してくれた。言葉で表すにはなかなか難しいこの感覚を共有できたことが、私はとても嬉しかった。

私が上高地に来たかった理由は一つ、穂高神社だ。

山の中にあるこの神社に参拝に行きたかった。穂高神社の奥宮には明神池(一之池、二之池)という池があり、とても美しいと聞いていた。

河童橋から歩いて一時間程度で穂高神社に行けると友人から聞いていたので、人気のない山道を、私はどうか熊と出会いませんようにと願いながら熊鈴をこれでもかというくらいチリンチリンと鳴らし進んでいった。ちょうどニュースで、河童橋から数分離れたところの右岸で熊と人が遭遇したニュースを聞いていたから、それはもう必死だった。どうか熊に会いませんように、たとえ会ったとしても無傷でいられますように、最悪襲われたとしても五体満足で帰れますようにと神様に祈っていた。

祈りが通じたのか運が良かったのか、熊に遭遇することはなかった。私は風景を楽しみながら、時々川のせせらぎの音、葉擦れの音、鳥たちの囀りを聞きながらゆっくりと山道を登っていった。そしてふと視界が明るくなった時、案内板が見えた。穂高神社だ。

本当に自然の中にあった。鳥居はそこまで大きくない。けれど凛とした佇まいで、それでいてとても穏やかな空気が流れていた。

境内はとても小さい。お食事処があって、その奥に社務所があって、ちょうど社務所の前に奥宮がある。参拝し、社務所にお金を払って明神池に入る許可証をもらった。

一之池、のちょっと奥にある足場から見える山。綺麗だった。しばらく無言で佇んでいたら、ミツバチが寄ってきた。

二之池も美しかった。ここは少し大きな岩があったので、ひょいひょいと登り、腰をかけて、ずっと池を眺めていた。

色んなことを頭の中で考えたり、自然の美しさを堪能して頭を空っぽにしたり。体内の毒素が抜けて、身体も心も澄んでいく感覚がした。

普段資本主義に呑まれているような生活をしているから、こうやって自然豊かなところに身を置いて、何も考えずにぼーっとする、或いは、何か考えながら時間を過ごす。それは私にとってとても大事なことだよな、と改めて思い返した。

私は自然が好きで、一人旅をする時は大体が自然が目的となる。そしてその目的地は、大体は海が関係していた。私は海洋生物とダイビングが好きだから、何かあればすぐ海へと足を運んでいた。

カナダのマドレーヌ諸島に行ったのも流氷の上にいるアザラシに会うためだったし、宮古島に行ったのも海に少しでも長く深く潜るためだった。自分が自然を求めるとき、海という要素は外せなかった。浜辺でさざなみの音を聞きながら、押しては引いてを繰り返す波を見つめているのが好きだった。太陽が段々と西へ沈み、空色が赤色へ、そして夜の色へ染まっていく海と空の境界線がなくなる瞬間を見るのが好きだった。

けれど穂高神社で、ただぼうっと山と池と空を見ていたら「ああ、この空間もいいな」としみじみ思った。

学生の頃は山という選択肢があったけれど、社会人になってからはなかなか、本格的な山の自然に触れることはなかったかもしれない。これを書いていて思い出したのが、唯一、会社の先輩が滝が大好きで、奥多摩の滝を一緒に見に行った時があった。それは今関係がないから、話を元に戻す。

色々考えを巡らせ、これからの人生について決意表明をしたときふと、空に龍のような雲が見えた。細長い龍の体のような雲で、他の雲とは明らかに形が違う。

なぜかその雲の先を追ってみたくなって、岩の上で立ち上がり空を仰いだら、虹が見えた。

わ〜!と嬉しくなったけれど、一瞬、あれほんとに虹?と自信がなくなった。

周りを見渡してみたけれど、誰も虹に気付いていない。みんな大体池か山を見ている。空を仰ぐことはしていない。思い切ってマダムたちに話しかけてみた。

私「すみません、あれ虹ですよね?私の見間違いじゃないですよね?」

マダム「え?(空を仰ぐ)……あ〜〜、ほんまやあ!(友達に向かって)ねえ見てみて、虹でとるよお!お姉さん、よく気づいたね、すごいねえ!」

マダムと私の会話を聞いていたのか、二之池にいた人たちがみんな空をパッと見上げていたのが面白かった。何より私の見間違いじゃなかったのか、虹が見えた〜と嬉しくなり、マダムとちょっと会釈を交わした。

数時間、穂高神社で時間を忘れてぼうっと過ごしたあと、社務所でおみくじを引いた。

毎度おみくじを引いて思うのが、短歌っていいよなあと。

完全に余談なのだが上高地旅行の後に行った大國魂神社でも「焦るな、待て」といったおみくじを引いて、墓参りの帰りに寄った日枝神社でも「時間をかけろ」という内容のおみくじを引いたので、多分全力で神様たちが「時間をかけろ!待て!急ぐな!この猪娘ェ〜〜〜!」と止めてくれたのだと思う。笑う。

実際、記事を書いている今(2023年11月末)色々なことが変化が起きて、ああ時間をかけて良かったなと思っている。あの時に急いで結論を出していたらきっと私は大変な道を進んでいただろうなあ。

穂高神社は穏やかで、でもすごく大きな力に守られているような感覚がした。また機会を作って来たいなと思いながら、帰るのが少し寂しくて一之池と二之池を何度も行ったり来たりを繰り返していた。

一泊二日の上高地一人旅はあっという間だった。後ろ髪をひかれる思いで東京行きのバスに乗り、家へと帰った。

リラックスしたい時リセットしたい時、私は絶対に「宮古島に行く」という選択肢しか持っていなかったが、この旅行をきっかけに「海に行きたかったら宮古島、山に行きたかったら上高地」という選択肢ができた。とても嬉しい。

素敵な地に出会わせてくれた友人に感謝。そして虹を見せてくれた、人ならざる何か、言葉では説明し難い大きな存在にも感謝している。またいつか行きたいな。

@uminosokokara
日常の備忘録。どこにも共有しないでください。静かな場所で静かに自分のためだけにこれを書いてます。