この静かな場所に、非公開で残しているページがある。一月に出会った、占い(と、言うよりもっとそういうもの)をしている方(以下、Aさん)からの助言だ。父親のこと、母親のこと、過去のことを内観していくといいという助言を受けていたのだけれど、なかなか向き合えない日が続いていた。明日やろう、明後日やろうと、妖怪後回しが私の背中にいた。これではいつまで経っても内観ができないと思い、どうしたらいいかと神社をぐるぐる歩きながら考えていたら、ふと、「そうだ。ここに書けばいいのではないか」と思った。
ここはいい場所だ。誰かにURLを教えない限り、誰も流れてこない。不特定多数の人間に見られていないから、好きに記すことができる。名前の通り、ここはしずかだ。その静けさが好きだ。
・父について
Aさんは霊が視える人で、私と会ったときは母方の祖母と、私の父が私のそばにいることを話してくれた。こんな話、普通だったら胡散臭くて何も信じないところなのだが、「小さい頃プール行きませんでした?腕にピンクの浮き輪つけてたり」とか、「お父さんの食べてたもの…お菓子?チョコ?欲しがったりしてましたよね」とか、私と家族しか知らないようなことをポンポン言われたものだから、これはもう、父がそこに「居る」んだな、と思って話を聞く体制になれた。
ここからは、私がおそらく二十代前半の頃に蓋を閉めた、父親というパンドラの箱を開けてみよう。内観するには、情報が必要だ。
私は二十歳の時、父と絶縁した。私自身がもう、私の父親は(私の感覚として)死んだからもう二度と会わないと決めるとある事件があった。
その事件のことは詳しくは書かないが、私は自分が決意した通り、父が死を迎えるまで会うことはなかった。時折父からメールが来ていたけれど、何が言いたいのかわからなかったため無視していた。時折、返した方がいいのかと悩み少し返したこともあったが、父に傷つけられたという感情があまりにも強く、憎しみが勝り、長くは続かなかった。兎にも角にも、私は、私が二十七歳か二十八歳の、父が死んだその日まで父と会うことはなかった。上記の文からわかる通り、私は、父が死んだ年も、日にちも覚えていない。
父が死んだという連絡が来た日のことは覚えている。職場のロッカールームで休憩していたら、父の携帯電話から着信があった。何も話すことはなかったので無視した。それでも何度も着信が来て、鬱陶しいとすら思えてスマホの電源を切って仕事に戻った。実はその数日前から、父からメールが来ていた。内容は何となく覚えているけれど、書こうとは思わない。けれど、ああこの人は私の感情など理解していないのだろうなと思う文面だった。
仕事が終わった夜、会社から出てスマホを確認したら母から着信があった。折り返し連絡をしたら、「車で迎えに行っていい?」と言われた。母がわざわざ車を出すということは、何か話したいことがあるのだろうと思って、「なにかあったの?」と聞いたら、「お父さんが死んだ」と返ってきた。
母は車の中で話してくれた。救急隊から連絡があって、父が危篤だと言われたと。母は、「もうほぼ別居してますし…」と返したらしい。すると、救急隊の人から「あなた、奥さんでしょ!」と怒られたという。私はそれを聞いて、救急隊の人はこちらの都合を知らないから、そりゃ怒るよなあと思いつつも、こっちにはこっちの気持ちってもんがあるんだよ、と生意気に不満を抱いた。
「なんか…ね」母は言葉を発しようとして、黙ってを繰り返した。「だからね、仕事、忙しいと思うけど、あなた忌引きで休みをとって欲しいのよ。会いたくないかもしれないけど、火葬場とか、納骨とかあるから。もう最後だと思って」と、母は私を何となく気遣いながらも、それでもこれは決定事項だからというような、どこか強い言葉で私を諭した。私が父の死体にすら会わないと思っていたのだろう。
「いや、いいよ。(忌引き)とるよ」と言って、私はそのあと、車の外に見える夜景をぼんやりと眺めつつ、母がこちらに渡す言葉に言葉を返していた。「明日ね、あなたは花屋さんに行って、お花買ってきて欲しいの。最期じゃない?棺桶に花くらいは手向けてやろうと思って」「そうだね。じゃあ買ってくるよ」「うん」そんな会話をしたような気がする。
葬式はやらなかった。父にはもしかすると、父の死を偲ぶ友人が一人二人はいたのかもしれない。けれど、いなかっただろうな、という気持ちの方が強い。彼は一見理知的で、頭が良いように思えるが、その実コンプレックスの塊で、他人のことを馬鹿にする人だった。そのような他者に攻撃的な人が、友人などいるはずがないと私はどこかで思っていた。
火葬場で、スタッフの人が棺桶を開けてくれた。そこには目を閉じた父がいた。
最後に会った頃の父の面影を記憶から手繰り寄せようとして、やめた。私が人生の中で最も傷ついた体験がそこに付随しているから、見たくなどなかった。過去の記憶から目を背けたいと思えば、自然と棺桶の中にいる父だったものからも目を背けたくなる。私はおそらく2、3秒だけ父の顔を見て、あとはふっと顔を逸らして棺桶から距離をとった。
焼かれた後の骨を、スタッフがとても丁寧に骨壷に収めてくれた。私が悲しんでいるから無表情でいると思ったのだろうか、スタッフは親切に、ここが喉仏で…と一つ一つ説明をしてくれたのだが、正直私は、そんなのどうでも良いから早くこの時間が終わってほしい、と思っていた。けれど、そんなこと親切にしてくれているこのスタッフさんに言うわけにはいけないと、殊勝な態度で一礼をし、心の中で好きな漫画のことなどを考えていた。
骨壷を持って車に乗りしばらくすれば、運転していた母に「今どんな感情がある?」と聞かれた。「死人にすかしっ屁された感じ」と私は正直に答えた。母親は笑って、「ああ、それ、本当にその通りね。あなた、言葉選びが上手いわ」と言われた。
記憶から失くしていた人間が、存在すらももう感じていなかった人間が、思い出したかのように死人として現れたのだ。不適切極まりないが、お前、まだ生きてたっけ!?という感じだ。
けれど、父は死んだ。死体も確認した。そして骨壷に入っているのは父の骨だ。それを墓に埋めて、花を添えれば、終わりだ。
結局、父親の墓参りは何度かしか行ってない。場所は藤沢の方だと聞いているけれど、私は場所がわからないからきっと一人では辿り着くことも出来ないだろう。
私は二十七か二十八かで、父親を本当の意味で失った。二十歳で既に失ったと思っていたので、私は一滴も涙を零さなかった。そんな私を見て、職場の人は私が気丈に振る舞っていると勘違いし、「⚪︎⚪︎さん(私)、そんなに強く生きようとしなくて良いんですよ」と涙目で言われたことがあった。ああ、そうか。父親という存在が死んだら、大体の人が悲しむのか、と、その人の涙に潤んだ目を見て私はにこやかに笑みを見せて、「そんな〜大丈夫ですよ〜」とおちゃらけていた。
他人に説明する時、昔なら自分の苦しみをわかって欲しいと思って、いろんな不幸話を話したがったかもしれない。けれど、今の私にとってその話は面倒臭いもの極まりないから、父のことを説明するときは、もうパッケージで「父は、まあ〜あれですね、クズだったんですけど、はい」とちょっと笑かすトーンで話していた。女癖が悪くて、私が母のお腹にいる頃から不倫と浮気を繰り返して、お金のトラブルも(多分)あった。私が異性を絶対的に信用していないのは父親の影響だと絶対に言い切れるくらいに、父に対して、昔は憎しみがあった。
けれどその憎しみすら、私はパンドラの箱に詰め込んで閉ざしていた。なぜかというと、私の母と兄が、私が父に対して憎しみを抱くことを許さなかったからだ。母と兄が父のことを話題に出してきた時、私が少し苦い顔をすると、「幼稚園から大学まで私立に入れてもらったことに対して感謝はないのか」とか、「死人に対して憎しみを抱いても仕方がない」とか、「私は結構あの人(父親)のことが好きだった」とか、私の感情を否定し、私が負の感情を持つことを良しとしなかったから、私も自ずと、この感情は誰にも見せないとギチギチに蓋をして、澱んだ海の中に蹴飛ばして沈めていた。
そうしていつしか、私は父に対して、愛情も憎しみも全く感じなくなった。だから、父親のことを聞かれると「ああ、もう亡くなってるんです」とにこやかに話せるくらい。「⚪︎⚪︎さん(私)のお父さんって、どんな方だったんですか?」と以前仕事の知り合いに聞かれた時は、「そうですね〜背中で語るような人でしたよ!」という大嘘を笑顔でつけるくらいに、私は父に対して無感情だった。心底どうでも良かったのだ。
だから、Aさんを知人に紹介してもらったときも、視てもらうことの中に父は全く入っていなかった。仕事と母親との関係性について相談したいな、と思って席についた私に、Aさんは色々と尋ねてくる中で、段々と父のことを話してくれた。母と父とのいざこざが、私の人生に複雑に絡みついて、それが少し良くない流れを起こしているから、それを少し切り離していかなければいけない。だから、おばあちゃん(母方の祖母)の力を借りて、お父さんとお母さんのことを、許さなくても良いから存在を認めていく準備をする必要があると言われた。Aさんが話す父についてのことばは、自然と耳に入ってきても不快ではなかった。
少し疲れた。続きは明日にしたい。いや、明日は友人の結婚式だから無理かな。友人代表スピーチもするし。明日か明後日にしよう。おやすみ。