昨日、というかほとんど今日、朝4時くらいまで友人と電話をした。
友人の推し活、家族のこと、私のプライベートのこと、とにかくたくさん話しまくった。きっかけは私がプライベートで憤慨することがあり、仲の良い友人とのグループラインに、「誰か電話しない?」と送ったことだ。その子はいいよ〜と言ってくれた。友人には感謝しかない。
昔の私はこういうふうに友人に甘えることがそんなにできなかったから、これは良い傾向なのかもしれない。
もちろん甘えすぎはダメだけれど。断られたら断られてもいい、というマインドを持って、そっと手を差し出すことを練習している感覚がする。
その友人と話すなかで、自ずと家族の話になった。
友人と私は結構前に、これまた仲の良い友人から「視える人」を紹介してもらって以来、仕事やプライベートのことをその人にちょこちょこ相談する機会を設けているから、友人も世の中に「不思議な人はいる」という感覚を普通に持つ人だ。
だから、一月に会った不思議な人についても彼女に話したら、「めちゃくちゃ具体的に見えてる人なんだね〜」とあっさり受け取ってくれた。ありがたい。こういった話に先入観がない友人は限られているから。
彼女と話す中で、自分の頭が少し整理されていく。私はその不思議な人と会うまで、父の存在を自分の中から消していた。思い返すことも、正負の感情どちらも抱くことなく、まさしく「無」という状態だった。
だから、その人に会って父の話をされた時は、正直、ええ〜そっちいくんか…と思った。
もう触れたくない部分なんだけどなあ、あともう死んだからなあ、と。
死んだ人間とコミュニケーションは取れない。私と父は分かり合えなかったし、わかり合おうともしなかったし、距離が縮まることもなかった。だから、そのまま死に別れた。そのことに対して後悔も抱いていない。ただ、抉られたような古傷が身体に残っているだけ。そんな感覚だった。
けれど、その人が話してくれた父の話を聞いて、今までとはまた異なる感情が生まれた。
「そりゃああのお母さんが妻だったらお父さんも大変だっただろうなあ」とか、
「お母さんは厳しい人だから、甘えたりすることはできなかったんだろうなあ」とか、
「お母さんはプライドが高いから、話し合いという話し合いができなかったんだろうなあ」とか。
もちろん父が全て可哀想というわけではなくて、父にも欠点があり、父も変わらなければならない点があり、問題点があったことは確かなのだけれど、母も母で強いから、そりゃあこの二人はうまくいかないよね、という中立の立場で親の「夫婦」という関係を見ることができたのだ。
今日は眠い。お風呂入って、寝る。続きは明日にする。