今日はちょっとだけ信仰だとか宗教だとかの話をする。私はかなりゆるやかに向き合っている方なので、しっかりとした人はあんまり読まない方がいいかもしれない。日記だから、私は私とだけ会話しているけれど、通りすがりで不用意に誰かを傷つけたくないなと思うので。
そもそも政治と宗教の話はしないことにしている。他の人と対立する要素が多すぎるし、特に世界に目を向けた時、あまりに不用意な話題だと思うから。きちんと議論をする時は別として、他に話せることがいくらでもあるなら、私は敢えてこの話を選びたくはない。
こうして書いているのはこれが日記だからで、宗教、というか信仰についてはよく考えることだからだ。寺院で生まれ育った私の子守唄は読経だったし、今も低い声が幾重にも重なって響くのを聞くと落ち着く。禅寺の独特な静謐な空気が好きだ。信心というよりは、自分のアイデンティティに近いものがそこにはある。
かといって、自分のことを仏教徒とは称しがたい。名前はもっているけれど。父のようには私はなれない。ただひとつの経が半端に唱えられるくらいで信じているなんておこがましいような気がする。それでも突き放したりはしない雰囲気が家にはあって、いろいろなものをゆるやかに受け入れていた。クリスマスにはケーキを食べ、サンタからプレゼントが来る家で、祖父の好物はすき焼きだった。眉を顰める人もいるかもしれないが、私は実家のそういうところが好きだった。ある種の救いがそこにはあったし、誰かの居場所でもあった。私たちの家には私たちの家の役割があった。
そんなふうにゆるやかに宗教と地続きで育った。どちらかといえば影響があったのは死生観の方で、宗教観はサラダボウルもかくやというところだ。昔話や神話を読み漁って漠然と八百万の神がいることを信じてきたし、ちょっとした困りごとの時には祖先の霊や祖父の霊に祈る。どれかの神様は目をかけてくれるんじゃないかと思って雑な神頼みもするし、キリストだって、誰かにとっては実在するんだろう。キリスト教については文化的にいいところもあれば、他の信仰を押しつぶしてきたところもあるのでちょっと複雑な気持ちをもっていることは許してほしい。マヤ神話もカレワラも、宣教師の手で編み直されていて、原型をたどることはもはやできない。
たくさんの教えのうち、必要なものを借りながら生きている。誰もいないところで背筋を正すために、手を抜ける時でもほんの少しだけ丁寧に仕事をするために、通りすがりの誰かに親切にするために。失敗した時も、この道がいずれ意味のあるものになると考えられるのは(そうしてそうするために努力することができるのは)、神様がいるという漠然とした安心感のおかげもあった。ちゃんとやる、は難しい。私は自分自身で律することができるほどストイックではなかったから、これまでたくさんの何かの力を借りてきた。これからもきっとそうだろう。