同人女の感情(私のジャンルに「神」がいます)
積極的に見るほどではないが、見る機会があれば見るくらいの作品。
二次創作に熱を上げる女性たちの「あるある」をモチーフにしたもので、端的に言うと嫉妬と友情、自己憐憫と自己研磨の話である。(異論は認める)
上質な百合(女性同士の深い関係)が描かれた作品と仰る人もいるのだが、私はこれを「百合」と見なすことができない反面、他者の感性を否定する気もない。ただ「現実のこれらは百合ではなく、友情と恋愛の区別がつかない状態」であるように考えている。漫画なら百合で済むが現実は非情である。
※単行本限定の内容については存じ上げない状態で書いております。
おけけパワー中島氏
作中には「いるいる」同人作家が何人も登場する。どれが誰なのか私はあまり把握できていないが、唯一分かるのが「おけけパワー中島」通称「おけけ」「中島」
読者の間では「おパ島」「おけパ」と略称ブレのある「作中唯一顔出しがない人物」である。
作中において「何だか知らないが度々嫌われている」――というと「嫌われる理由は明白であり、作中でも描かれている」という指摘があるかもしれないが、私はおけけ氏が嫌われる理由がいまいち理解できないのである。
活発で友達の多いおけけ氏
「ジャンルの神(二次創作の中で頭角を現し、ファンの多い人)」と仲が良く、神のプライベートでも付き合いがあり、SNS上でもやり取りをしており、自分の好きな傾向の二次創作が中心の本を出版するにあたって声をあげたら、あれよあれよという間に何やら傍目に豪華な同人誌ができてしまう。
で?
それの何が「おけけ氏を嫌う理由」として正当なものになるのか?
言い換えれば「おけけ氏が嫌われる理由」として描かれているものは、どれもこれも「私にとって納得がいかず、理解できない」ものなので、私はおけけ氏のことを「何だか知らないが度々嫌われている」としか言えないのである。
「おけけ氏のようなものは嫌われて当然である」あるいは「おけけ氏のようなものを嫌ってしまう」という共通認識にまるで理解が及ばない。この理解の及ばなさは例えるなら「外国語ワカリマセン」である。異文化である。
おけけ氏になれなかった私
さて「自称おけけ」には身構える人が多いだろう。
私は別に自分が完全で完璧なおけけであるというつもりはない。そもそも同人誌を出したこともなければ、合同誌の企画を立ててみたこともない。ゲスト寄稿しないかどうか聞かれて断ったくらいには即売会や同人誌を避けていた。
「本」という形で即売会を通した場合、私の認知と管理の外側に作品が飛んで行ってしまうのが怖いからである。半永久的に他者の手に「ログ」が残るなど耐えられないのである。
インターネット上のログだって他人が保存すれば残るのは分かる。だがそれとこれは別である。印刷され、物質として存在し、名前まで存在し、あらゆるトラブルの引き金になるかもしれない「魔の書物」を作る覚悟が私にはなかった。大変な偏見だが、私にとって「製本を伴うオタク活動」と「即売会」は魔境に等しかったのである。一応夏冬1回づつ経験はあるが、それしかない。なぜなら即売会は怖いという勝手な偏見が染みついているからだ。
オタク怖いのにオタクに関わる私
ハッキリ言うと私はオタクが怖い。自分がオタクではないので。
アニメやゲームが好きで、二次創作もしたことがあればオタクだろうと考える人もいるだろうが、それでも私はオタクではない。自認が違う。厳密にいうなら「普段から常に間違いなくオタクを自覚できるほどオタクではない」
考え方とか価値観とか、何かどこかで「オタク」とされる人たちと全く異なる点があると思う。なので私はもちろん間違いなくおけけ氏ではない。私はおけけ氏になれなかった。なりたくもないが。
オタクと私
オタクが怖いということは、オタクが嫌い――というわけではない。
オタク文化は楽しいし、オタクも楽しい人がいる。ただ独特のトラブルもあって、そのトラブルが理解できない。異文化のタブーに触れ、一瞬で囲まれて棒で叩かれ、火炙りにされて終生まで呪われるような恐ろしさが生じうる可能性が怖いだけである。タブーに接する恐怖を気軽に味わいたくないのである。
「同人女の感情」において主題として描かれている「同人女ならば持っていて当然の感情」とやらが私に存在しないのが分かった瞬間、ものすごい勢いで攻撃されることを体感的に知っているのである。オタク怖い。
主語が大きいのは重々承知している。中には「それはオタクではなく、女性オタクだろう」という人もいれば「女性オタクの中でも腐女子だろう」という人もいれば「オタクかどうかに関わらず排他主義や選民思想は恐ろしい」という人もいるだろう。とりあえず私の感情としては「オタク怖い」のである。
怖くないオタクもいるのを知ったうえで、オタク怖いのである。
厳密には「一部のオタクが持つ宗教的強度のある精神性が怖い」のか。
なぜおけけ氏になりかけたのか
私がおけけ氏になりかけた理由は、私が考える限りでは至極単純だ。
私は「神」とか「底辺」とか、上手下手に特別な名称をつけて競い合うのが嫌いだったからである。というのも、まるで幼稚園児のように平面的でデッサンの取れていない人物の絵について話したとき、プロの先輩から「へえ、随分と偉そうなことを言うね」「この絵から学べることがないんだ」と告げられたので驚いたのである。
私はその時から、一見して絵が下手に見える人からも学ぶことがあるのだと気づき、あえてその人のキャラクターを研究して描いてみたり、その人が描く漫画を前よりは毛嫌いせずに読んだりするようにした。
今思えば、その人も一種の「おけけ」であったと思う。
幼稚園児並みのお世辞にも上手いとはいえない絵を描きながら、なぜか周囲には人が集まっており、合同誌を出すときもページを割いてもらっている。傍目には不思議な状態である。でも……だから何だというのだろう。
この「自他の比較をする意味を感じない感性」から生み出される諸々の言動と関係性がとにかく気に食わない人がいるのだろうなとは思う。
潰れたおけけもどき
私は現代でいうところの「毒マロ」に当たるものを度々食わされている。
そして困ったことに「神」……というほどではないと思うが、人気のある人と仲良しであったときに、その「人気のある人のほうが私に対して病む」という事態を度々経験している。「神になりたい人」が暴走したのも見ている。
私は環境的にもおけけになれなかったのである。なりたくもないが。
「自分は神」あるいは「神に等しい」という自覚のありそうな方々が奇妙な国を作り上げたのも見ている。国というか、空気というか。私はあいにく同人女ではない(同人女特有の感性がない)ので明確に感じ取ることができないのだが、一種の女王のような振る舞い。その人がため息をつけば、誰もがその不愉快の原因を察して同調と頷きを示すような環境は驚きと恐怖に満ちていた。
少なくとも私は、そのような環境を好ましくは思わなかったし、それを許す環境や関係性も異常であるように感じていた。
つぶれる前の私
とにかくオタクの作法も、自他を比較しての遠慮も知らなかった私は、関心と興味があれば向こうの人間関係などおかまいなしであった。たぶん、それでいうと「おけけ」と「むかい」を断片的に経験している。
そもそも私がオタク世界に触れたのは、友人がオタクだったからである。友人が二次創作をしていて、そういうものがあると知って、なんか気づいたら私も創作活動をしていた、というくらいには「オタク世界」を知っていたのは友人である。なんかよくわからないうちに疎遠になっていたが。
ただ、とにかく「私がおけけになりかけた」のは「相手をただの存在だと思っていたから」というのが大きいと思うし、同時に「私がおけけになれなかった」のは私がおけけほど同人女の感性を持っていなかったからだと思う。
「同人女の感情」に横たわっている「何か」を感じることができない限り、私は彼女たちの世界に馴染めないのだと思う。馴染みたくもないが。
だが、馴染まないにしても彼女たちについて理解するのは創作活動において重要だと思うので、目に留まった時は読んでしまうのが「同人女の感情」という作品である。
余談
何年も活動していらっしゃる方に声をかけたら「はじめて声をかけていただいた」と言われたのは本当に驚いた。これは「同人女の感情」でも類似のエピソードがあったが、最も目立つ人ほど孤独であるというのはあるあるなのかもしれない。よく分からないが私としては「一番の先輩には挨拶をしておかなければ!」くらいの感覚であったと思う。大手かどうかは関係ない。単に先輩であるから声をかけたのである。まあ、残念ながらいつの間にか彼女は病んでしまって、何があったのか事情を聴きに行った私ごと嫌悪していたが。
はあ。
同人女の感情を理解できる気はしない。でも、彼女たちと仲良くできたらなとは思う。そういうところこそ、同人女の感情と遠いのかもしれない。
彼女たちの言う「仲良く」と、私の言う「仲良く」には致命的な差があるように思えてならないのだ。仲良くなるためにチケットのようなものは必要ない。絵が描けないかもしれないのにいいのか? 絵が下手になるかもしれないのにいいのか? それが一体全体、個人が遊んだり話したりしていたことにどう関係するのか、私はずっとずっと分からないし。
最近話してくれない、遊んでくれない、だから創作を暗くて悲しいものばかりにした――というのも理解ができない。心身の状態が作風に影響を与えることがあるのは確かだが、作風から状況を感じ取ってもらいたいというのは分からない。悲しい作品ばかりですね、大丈夫ですかなんて声はかけない。
分からない。
ただ「同人女の感情」で最も理解できるのが「媚びるな」「みんなお情けで、お前が嫌いだ」という言葉をぶつけられることなのだ。
……分かりやすいけど繊細さに欠ける、というのも全くその通りである。
おけけの嫌われ方と作風の関連性も「あるある」なのだろうか。
マイナーにハマる
私もそうである。あるBL商業サイトにある攻め受け診断(どっちが攻め?と聞かれたら選ぶやつ)を試しにやったら全部逆だったときは本気で理解ができなかった。なぜだ。最近も気になった作品を調べたらほぼ逆である。なぜだ。好みの要素に関しては絶無である。なぜだ。皆もっと好きなキャラクターを無力化すべきである。できれば箱に詰めてほしい。
思い出したが非常に短期間、有名作品の二次創作をして「他に似たような雰囲気と解釈の作品が全くない」ことに泡を吹かんばかりの思いをしたことがある。私の好きなキャラクターに関する争いに疲れて作品を取り下げ、以降は記憶から封印していたようだ。思い出したくないのでまた封印しておく。主流の解釈でなければ嘲笑されるエピソードは「同人女の感情」にもあった。今あのエピソードを読んだら追想と共に呻き声を上げるだろう。
私もなぜ私が好かれる時があるのか、あったのか、理解できていない。「上手い人ではなく筆の早い人、ネタのある人のところに人が寄っていくんだ(=私はあなたより筆が遅くネタがないから人気がないんだ)」や「私は健常者なので、あなたのようなセンスがない」などと言われたこともあるが、筆が遅くても好かれている人もいる。障害があろうがなかろうが技術の差はある。よくわからない。何が目的で何がしたいんだろう。好かれたいのだろうか。
ちなみに「私は健常者なので、あなたのようなセンスがない」と言われた当時、私は健常者である。何を以て私を障害者と判断したのだろう……。おそらくは「ごく軽度のASDのような特徴」「うつの経験」辺りだろうか。
不安で仕方がないときに浮かび上がってきた作品は比較的人気があったが「不安を周りにぶつけるな」などの言及で面倒になった記憶がある。単に不安を昇華しているだけで周囲への八つ当たり扱いされてはたまらない。別に誰かを殺すような絵を描いていたわけでもないし…… :/
他人の感情は操れないのに、気にすることが広すぎないか。
自分が好きなもの、好きな人に「いいですね!好きです!」と伝える以上に「好かれたい」のほうが大きいのか? いや「好かれていないと好きを言う権利がない」という考えだろうか……。「あなたがもし私を好きなら、私もあなたに好きを返します」という好かれ待ちの奇妙な主張をする人には実際に会ったことがある。自分の主張は相手の主張に合わせて決めるかのように伏せ続けているので不信感しか募らないのだ。
分からない。
追記
率直に言えば私を嫌う人は私から多くを読み取りすぎだと思う。
邪推(じゃすい)という言葉を知ってほしい。
余談:おけけ氏の顔出しがない理由
おけけ氏はおそらく「要素的な人物」であるために顔出しがないのではないかと思う。大なり小なり「おけけっぽい」人というのは多くいて、その全てを網羅した存在にはできないのではないかと感じている。もう一つの可能性としては「おけけ氏は同人女だが、同人女の感情は持っていない」というのを感じている。彼女は舞台袖の人間であって舞台の人間ではないのだ。