TRPGの話~エモシがたぶん苦手~

なんか喧嘩してる印象

空気が変わったなあ。面倒だなあ。と思うようになったのはいつからか。

私の遊びたかったTRPGは段々消えていったことだけは確かである。

私はいつもそうだ。流行りが終わり、時代が変わり、変化する過渡期に居る。

私が「待って」と声を上げたときには遅いのだ。

大体私は思ったことを言葉としてきちんと発するのに2年くらいかかるので、単に遅いのかもしれない。疑問を持ったその瞬間に、そのまま疑問を口にできれば、声を出すことができれば――まあそれは別の話である。

なりきりチャット

私からすれば面白くて楽しいところだが、後に聞くところによれば下火だった。私は残り火を少し楽しんでいただけなのだ。

なぜ下火になったのかは知らないが、40代50代らしいプレイヤーと20代らしいプレイヤーの価値観的なぶつかり合いを聞いたので、単に「遊んでいた人たちが大人になって離れていった」というのが大きいのかもしれない。

余談だが私もあまり先住民が開放的でないなと感じた。そもそもが女性優位の文化であり、女性特有の感性や思考についていけないと一瞬で排除されるような印象がある。私の経験が偏っているだけかもしれないが。

TRPG

サイコロのついたなりチャ。かと思ったが、そんなことはない。

これはこれで全く別の遊びでゲームなのだと理解した。

なりチャにもダイス付きのところというのがありはしたが、TRPGとは似ても似つかない。なりチャのダイスは単なるコインの裏表だ。

せっかくだから、この後どうなるかは数字の大小で決めよう程度の話である。

コインを使うTRPGが世には存在しているのは知っているが、今はとりあえず置いておかせてくれ。私が大事にしたいのは「TRPGのサイコロと、なりチャのサイコロは私にとって明確に違うものだった」ということだ。

道標と運命

なりチャのサイコロは道標である。

どちらに行こうかな。どこに行こうかな。迷った時に小枝を倒す。

対してTRPGのサイコロは運命である。

この先は誰にも分からない。サイコロだけが知っている。

GMですら運命の先は知り得ないのだ。

「ファンブル(致命的失敗)」!

君は椅子にぶつかって激痛を覚えた。体力を1失う。

「クリティカル(決定的成功)」!

君は奇跡的に仲間を助け出し、化け物から逃れきった。

私はTRPGの「運命のサイコロ」が好きである。

エモシ

本題である。エモシと書くだけで若干気分が「うう」と吐き気を帯びる。

ここで先に、お詫びしておきたいのだが、私はエモシを読んだことも体験したこともない。たぶん、そもそも「エモ」というものに感性がついていっていない。普段から恋愛要素などを表面的にしか理解できないので、そのせいだろうと思われる。

「うう」という吐き気は「理解できないものを理解できないと述べると、であるならば触れるなと猛烈な反発と攻撃に合い、教えてもらうことすらもできない」という経験からくるものである。それでも私は今この話をする。

たぶん、あれはエモなんだろう。というものについて思い浮かんだりはするが、それが楽しいかと言われると「なんだかキャラクターやプレイヤーが感情的になって涙を流したり、必死であったりした」という印象しかない。

私のことを人でなしと思っていただいてもいいが、私は情動系が弱い特性の持ち主であるので、「生まれつきエモ力が低い」と思っていただける方がいい。つまりは私以外の人を人でなしと言うのはやめてほしい。

エモとは

エモーション、エモーショナル。略してエモ。つまりは感動的なこと。

センセーショナルでスペクタクルなどと言い換えてもいいかもしれない。

とにかく感情を揺さぶり、劇的であることだ。

私も別に嫌いではない。偶然そういうシーンになって盛り上がることくらいはもちろんある。あくまでも「偶然そういうシーンになって」例えばアドベンチャーにおいて「ここでエモ!」と決まっていたとして、「これはエモエモである!」と決まっていたとして、私はそれを知りたくない。

予め「そう」であろうとすることには関心がなく、興味がなく、つまらない。

そういう意味で私はエモシとは間違いなく、おそらく、たぶん相性が悪い。確認のために1回やってみたいくらいには致命的に問題があると思う。

つまるところ、私は偶発的なエモにしかエモーショナルを覚えないのだ。予めエモーショナルであることを宣言され、提供されると醒めるのだ。見え透いた感情操作をしてくる作品が基本的に苦手なので感性の問題であろう。

作られたエモに関心がない

腐女子の一部から時々聞く、「お膳立てされた男子二人組や、狙い過ぎな展開には醒める」というのに私の「エモシ」に対する忌避感は似ているのではないだろうかと思う。

エモ、あるいは感動的な展開は自然と生まれるから楽しいのであって、アドベンチャーの方から、さあここが正念場!ここが最高潮!と促されるのがあまりに露骨だと「気持ち悪い」のではないか。

しかし私はエモシをしたことがない。ただ、HO(ハンドアウト)や宣伝を見ていて、ある程度の推測がつき、さらには「こういうエモである」という話がされているのを見ると「つまらない」とか「気持ち悪い」とか感じるところはある。なぜだろう。別に他人がエモシを楽しんだり作ったりは好きにすればいい。もちろん。私に彼らの楽しみを破壊し中断させる権利自体は無いのだ。

たた。ここまで「明確に吐き気が生じる」のは非常に不思議である。そこまで関心がなく、苦手であると反射的に感じる要素がどこかにあるのか?

間違いたくない

あれである。「何を考えているか分からない女性の要望に、適切に応えないと面倒になる」という時の感情に似ている。求められている「エモ」とやらを求められた通りに出来ないと「何で分からないの」の批判が来るのであろうと反射的に想像してしまうのだと思う。何か答えがあるのだ。

「分かる人にだけ分かる答え」があって、それについて聞くと「分からないなら遊ぶな」と言われる、あの感触。あの感覚。あの日。それをエモシの宣伝やハンドアウトから猛烈に感じているのだろう。自覚すると震えてきた。

……なりチャの一部でも遭遇した問題である。つまり、やはり、要点としては「選民思想のプレイヤーがいる」という問題なのだろうか。もちろん選民などしていない人たちもいるが、そのう。「エモこそがTRPGである」「うちよそこそが創作である」という一つの価値観しか掲げないところに問題が集中しているのではないかとは、思うのである。

私は「うちよそ」という言語自体にあまり良い思い出がないが(別に使うなとは言わないし、使っている人を嫌ったりもしない)その背景には「話を聞いてくれない」「本物の恋愛のような嫉妬や束縛、面倒を持ち込む」という体験的な印象がある。つまるところ、これは一種の自己課題なのだ。

異端を許さない。だが、何が正しく誤りであるかは教えない。

資格のあるものであれば自然と正解を悟るはずだ――というあの価値観が私は大の苦手である。彼女たちは質問を否定と受け取る。

彼女たちが異様だったのか、それとも正常だったのか。私は未だ知らない。

エモと私

もし私でも、エモを理解できて楽しめることがあるなら、楽しみたい。

理解できなかったとしても、それを理由に睨まれたくない。

遊ぶ資格や権利がないなどとは、言われたくないものだ。

@unitus0
極軽度ASD/言語IQ120