1.
私が、しずみー(sizu.me)こと、「しずかなインターネット」に登録したのは、あまり面白くない話、客観的に見て、他人から見たくない話、ブロックやミュートの原因になりそうな話をしないため、隔離するためでした。
しかし私は結局、段々と表立って話すことが増えました。
「しずかに話したい」ではなく「聞いてほしい」
「理解されたい」という気持ちが増えていったのだと思います。
2.我と自我
「我が強い」という言葉があります。
自己主張が強く、他者の意見を聞き入れない傲慢な人などを指します。
「自我が強い」という言葉があります。
これは女性オタク界隈の一部で使われている単語らしいので、私は詳しくありませんし、そもそも辞書を無視した内示的意味《自己解釈や内輪的な意味》を当然として会話されることが苦手なので、 あまり知らないのですが、「私生活や私情の話をする」ひいては「コンテンツとしての自覚を持って振る舞っていないこと」について言うようです。
3.コンテンツ人(びと)
特定のコンテンツを扱うと思っているから見ている、というのは分かります。
楽しいこと、楽しいもの、前向きなものを取り入れたいというのも理解します。私自身そうです。悲観的になってしまいそうなものは見たくありません。となれば、私のように「障害があり」「何かしらの苦痛を受け」「生きることについて考え」「トラブルに言及し」「思考の違いや知識の差について話す」――同意と共感、肯定に満ちた言動とは言えない様は不愉快でしょう。
お茶の間に提供するに適さない。いえ、ものの喩えです。
4.
なぜコンテンツ人であることをやめたのか。
単純にコンテンツ人であることに利点がないと思ったからというか、コンテンツ人として振る舞えば色々うまくいくかと思えば、そんなことは全く無く。
コンテンツ人ですと主張すれば、それ自体が私のコンテンツ力を損なうといいますか、何も言わない人間だから良かったのにみたいな。ああ。うん。なんですか。「本だけ読みたい作家」みたいな存在だったんだろうなというか。
それは理解するので。私も好きな絵師さんが特定のジョブに対して非常に辛辣で嘲笑的な言葉を向け、更には喧嘩をするのが当然のように言い始め、なんというか、非常に卑屈だなあと感じたというか。ええ。まあ。
私だって「他人が思ったのと違って、渋々『作品は良いのに』と思いながら離れる」ということはしたことがあり。
しかし、自我を出すな、ひいては、相手が相手の思うこと感じることを述べるなとは思わなかったので、ええと。
5.
私、たぶん、コンテンツとして他人を消費するのが当たり前の文化や価値観に慣れられないんだと思います。
それってどういうこと?と自分でも思うのですが、具体的に説明するのは難しいです。ただ、「ジャンルでアカウントを分けるべきだ」とか「個人が個人らしくすることは悪いことだ」とか「理解されようとしたり、理解しようとしたり、努力が必要なものはおかしい」とか「可能な限り何の労力も要らない状態であるべきである」という前提で振る舞う人や文化について、私はものすごく暴力的なものを感じるといいますか。
6.侵略的な常識
それがなぜ「つらいな」と思うのかは分からないのですけれども。
個人の自由ではなく「そうあるべき」とされていることには違和感があって。
別に、この世界、その人達のものじゃないのにな。
という気持ちが、何度も何度も。
どこにいっても。
どこから見ても。
巡り巡って落ち着いてくるところに、あるんです。
7.私の視点しかなくて、ごめんなさい
「郷に入っては郷に従え」というのは理解していますが、そもそも、そこにあるのは郷なのでしょうか。郷同士が集まった山々、サラダボウルの中で、我々こそが「郷」だ。と主張する人がいるだけではないのか。
創作で生きていきたい。
創作をしたい。
けれど、
私は。
郷がわからないよそ者だ。