概要
かねてより気になっていた「反戦主義」の方と話をする機会を得た。
※私が気になっていたのは「反戦主義」である。その人個人ではない。
「戦争を仕掛けた人が一緒に祀られているから靖国神社は問題がある」というのは「戦争を仕掛けた」という表面的な理由で死者を差別しているのではないかと思う。
そもそも日本で「祀る」というのは「御霊が荒ぶらないように抑えておく」という意味もある。「あなたのやったことの是非や正誤はともかくとして、我々はあなたの歴史の上に生きている」という意味で祖霊を祀るのに何の問題があろうか。祖霊を現代の感覚で「選別」することに何の意味があろうか。
祖霊を選別しても、我々の国が戦争を仕掛けたという事実は消えない。
――という話をしに行ったが相手が来れなくなったのでここに記録する。
前置き
タイトル通り私は「政治論争が苦手」なのだが、機会があれば問うてみたいことや話してみたいことはあり、その機会に恵まれることがあった。
「どこの大学を出ているのだ」とか本題に関係ないことも聞かれたりしたが、相手は私の不躾であろう率直な疑問に答え、思うところを聞いてくれた。
思ったよりは終始穏やかで、相手も「我々の活動や思想に理解を示してくれ、真剣に考えて話してくれる人がいる」という感銘を覚えたかのように感嘆とした抑揚のある声で話し、何度も頷いてくれた。
……インターネット上、特にSNSで見る人々とは全く印象が違った。
私はそういった人々に大してなら自分の意見を話してもいいと思った。
自分と異なる意見や見解、誤解や無知に対して批判的になることなく、耳を傾け、なぜそう思うのか、どうしていったらいいのか、もっと話題を深化させるにはどんな情報が必要か、知るものが伝え、お互いに学びを得る。
対話とはこうあるべきである。私、とても満足。
つまるところ「批判と攻撃を主体とする方々に向けて文章を書いているつもりはない」私は「誰の意見が最も正しく一極化されるべきか」には関心がない。
ただ「私はこう思い、こういう立場であるが、何か役に立つならば聞いてくれ」という気持ちだ。
私のプロファイル
さすがに事細かに述べることはインターネットの特性上したくないが、参考までに言うと私は特別に専門的な学びをしていたわけではない。単にSNS上で嫌でも聞くことのある発言や、たまたま政治や戦争に関心のある人々の話、そして世界の宗教文化について見聞きする素人の総合的な見地から述べている。
"靖国神社"について
寡聞ながら私は「靖国神社」について、さして詳しくない。
「神社」についても、なんとなくの理解しかない。
私が思う「神社」
「神様のおわすところ」
「二礼二拍手一礼」
「御手水」
「鳥居は線引」
「中央通るべからず。神様に道を開けて端を行け」
「神と人にも相性がある。合わぬ神社は避けよ」
「御神籤は心に留めるもの。良き結果に驕るも悪き結果に嘆くも悪し」
「お守りは穢れを受け止めるもの。長く持たずにお焚き上げに出すこと」
……後半は「神社にあるものの知識」であるが、まあ神社のカテゴリとする。
靖国神社の立場や御霊について
さて、私がディベート相手から以前聞いたのは「靖国神社には戦争に参加した人々がおり、彼らが当時の文脈で英霊であり、現代の価値観で安易に批判されるべき人々でないのは確かだが、同神社に『戦争を仕掛けた人々』も祀られているのが問題である」ということであった。
言わんとすることは、わかるが、違和感があった。
補足:
私は言語処理IQが高く、相手の発言の意図や構造を瞬時に理解できる
相手にわかりやすく話すための記憶・推理IQは平均未満である。
相手が何を言っているかは分かるが、適切な反応を返すのが遅くなる。
具体的には早くても1時間、遅いと数年。交流上の困難の主要因である。
ASD(自閉症/アスペルガー)ではないが、それに近い挙動をする。
靖国神社の立場
「戦争を仕掛けた人が一緒に祀られているから靖国神社は問題がある」というのは「戦争を仕掛けた」という表面的な理由で死者を差別しているのではないかと思う。
そもそも日本で「祀る」というのは「御霊が荒ぶらないように抑えておく」という意味もある。「あなたのやったことの是非や正誤はともかくとして、我々はあなたの歴史の上に生きている」という意味で祖霊を祀るのに何の問題があろうか。祖霊を現代の感覚で「選別」することに何の意味があろうか。
そんなことをしても我々の国が戦争を仕掛けたという事実は消えない。
――という話をしに行ったが相手が来れなくなったのでここに記録する。
批判への批判(想定しておいたもの)
「政治的意図を持っている"かもしれない"」と「政治的意図がある」は全く別物だ。宗教戦争があっても、戦争が宗教なわけではない。
私は、政治家が靖国神社に参拝するのは「あなたがたの未来に我々がおります(あなた方が守り、繁栄させようとした国の未来に私がおります)」という挨拶のようなものだと思っている。つまり、靖国参拝を直ちに非とするのは不当であるように思えてならない。
「祖霊信仰」と「戦争賛美」は別に考えねばならないのではないか?
言い換えれば、物事や相手を批判する時に「関連文化の背景」が考慮されていない場合、それは単なる偏見・主観からの批判となって妥当性を欠く。私もまた、今「靖国神社のあり方に疑問がある人」「靖国参拝に反対の人」について十分に知り得ているわけではないし、信用できる相手としか話したくないので片手落ち(全体に対する配慮が足りていない)の状態である。
時代的背景、文化的背景、個人的背景、ありとあらゆるものを想定し考慮した上で批判するなら私も分かる。つまりは表面的な批判に終止している限り私は疑問を呈する。疑問を呈するだけだ。反対はしない。
「戦争自体には反対だ。だが理想論で現実は覆らない」
というのが私の意見と立場になる。