あ、別になんか呪いの食器とかいう話ではないです。
飯茶碗が割れた。ぱっかりときれいに二つに割れて破片も出さずに。おかげで片づけが楽だった。ホムセンで買ったものだが緑の釉薬が流しがけのようにかかったデザインで織部好みとでもいいたいような茶碗で割と好きだった。もう四半世紀くらい使っていると思うので十分役に立ってくれた。最後まで実に有能だった。ありがとうな、と紙にくるんでビニール袋に入れて次の燃えないゴミまでステイしている。
で、ちょうど冷凍ご飯をレンチンし終わったところで割れたので、取り急ぎ代わりの椀を出そうと思った。しかし、これがない。私はどちらかというと器好きのため食器は結構ある。高いものは持っていないがこれは九谷だのこれは小鹿田だのと言って焼き物もいろいろある。そのくせ日常的に使われるのは限定されている、のは置いておいて。ただし飯茶碗に相当するものは一つしかなかったのである。
いつか、新しい箸を買おう、と思ったときに無意識に赤を選ぼうとしている自分に気が付いた。何故って家族の中で箸を区別するにあたり「おねえちゃんは赤ね」と言われて赤を与えられてきたからである。今ならジェンダーステレオタイプがどうこうという話になるが当時はそれに誰も疑問を持たなかった。それに箸の色にこだわりなどなかったのでどうでもよかった。
「そうか私は黒い箸を(あるいはどのような色の箸でも)持っても良いのだ」と思ったのは小さな、しかし個人的には結構インパクトのある気づきだった。
ところで箸を家族間で「これは誰のもの」と区別する家庭が多いように、飯茶碗も「これは誰のもの」と決まっているところが多いように思う。そうじゃないよというご家庭も当然あるとは思うが。
こういう風習を「属人器」といい意外と日本と朝鮮半島くらいにしかないと聞く。確かに「俺のフォークはこれ」っていってる西洋人は見ない。
そこで箸と同じく日本人的には属人器である飯茶碗である。「誰のもの」と決まっているがゆえにほとんどにおいて「それ(ex.おねえちゃんのお茶碗)は家庭内に一つしかない」のである。
多すぎる器があっても飯茶碗は一つしかない。すでに一つあるからいいなというデザインがあっても買おうと思わなかった。これもまた呪い、というか思い込みなのだな、と思った。
とりあえず「明日からご飯茶碗ないの落ち着かないので早く買いたい」VS「いやこの際だから心ゆくまで選びたい」という私がバトルしている。とりあえず手に入れていいのがあったらまた買えば、という思考にならないあたり「飯茶碗は1個」の呪いは強い。