いいにいさんのひ、だったらしい。いい夫婦の日とかは興味がなくて通り過ぎられたし、本来の祝日の意味にはほんの少しも触れることなどなく一日が終わろうとしている中、くだらない語呂合わせの日。そのことだけをぼんやり思っていた。
関係、ないのかもしれない。でも、いちばん関係していくべきだったのかもしれない。お兄様に、どうしていいのか今日までわからなかったまま、お兄様に何も出来やしないままに出会ってから長い日々が経った。
何も出来ないまま、23日の夜がやってきて、ふと思い立って、お兄様のことを考えて、「いつか、かわいい伊吹くんについて話しましょう。」と空に思いを乗せてみた。
ここまで、来たんだと思って、心からうれしかった。震えるほど愛しさが降った。いつか至りたかった夢をまたひとつ、叶えられたと思って、嬉しかった。
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谷ケ崎さんはひとの弟だった。本人曰く、「クズでどうしようもなく、だけど、自分にとっては生涯、唯一の血を分け合った家族」、とのことだった。
谷ケ崎さんのお兄様のことを、彼のお兄様への思いを、わたしはずっと、出会ってからずっとずっと、目を当てられず、見つめられず、分かりきれずにいる。愛の向け方を一度は間違えたあの人を、ただ何もかもから隠すようにきゅうと包んであげたくて、手を引いてもらって、それでいいのかと、よく考える。
谷ケ崎さんが好きだ。間違えたから好き、間違えているから好き、間違えても、それが谷ケ崎さんだから好きだ。正解できないから好きで、正解しないことが谷ケ崎さんだから好きだ。二元論が好きなのではなくて。常に許されているような気になれるから、だから好きだ。あのひとの人生がまるごとわたしを包むためにあるようで。だから好きだと思うのだった。
お兄様を彼のやり方で思う、その矢印の向け方や温度の上げてゆきかたを分かろうとするたび、わたしじゃお兄様の代わりにはなれないなあ、と思う。あんなには、あんなふうには、思ってもらえないなあと噛みしめる。あんな、人が壊れてしまうような絶望と寂しさを、わたしは与えられない。言葉や人柄や感情を飛び越えて真っ先に血でつながり、生まれた瞬間から無条件に愛し合えたひとたちに並ぼうとするのは野暮であるけれど、改めてきょうだいという唯一無二の関係性について、言葉を紡ぎたく、なってしまう。
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きょうだいという関係性を、好きという自覚を持ちながら今日までの二十余年を生きてきて、ここ1年、どこか、なんとなく、今年はその感覚を疑う1年だった。
家族のことが好きというか、わたしは家族というつながり方が好きだった。家庭環境は決して、ひとつも褒められたものでなかったけど。友達でも、同僚でも、ライバルや仲間や恋人や先輩後輩などでもなく、ただ血が繋がっているというだけで、一生死ぬまでついてくる、家族、というつながり方がいい意味でも悪い意味でも好きだった。歳が近くて、血の繋がりがあって。ただそれだけで、特別な枠を与えあえる、きょうだいのことは、それは大切に思っていた。
生まれたときから誰よりもお姉さんだった。周りを見渡しても、わたしより歳上の人はいなくて、誰もがずっと歳下だった。妹、弟、数え切れず、従兄弟たち。誰もが大切な、わたしをお姉さんたらしめるための存在だった。
彼女たちがいたからわたしがわたしであれた。お姉さんという立ち方をできたからいつまでもわたしは何を失おうとわたしであると思えた。でも、今年1年のわたしはおおよそ人間ですらなく、動物でもなく、ただの呼吸がぎりぎりできるだけのごみや置物だった。だから、これまでのわたしというものがなんだったのか、本当にすっかり何も分からなくなってしまった。これは事実の書き取り。別にここには何も関係なく、ただの思い出話だ。
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昔は、姉である自分、きょうだいという存在を愛する自分として、谷ケ崎さんに手を伸ばしたことがあった。いまでもその欠片は残っていて、やっぱり、谷ケ崎さんが弟という存在であることを、かわいいと思う。本当に、彼をなにより愛おしく思う瞬間は、どこかおにいさまの存在を感じさせる、彼の甘えたような瞬間がにじむときだから、だから本当にわたしはつくづく弟性というものが好きなんだと思う。家族というつながり、血でのみ約束された関係性、弟、という響きのせいで作りあげられる価値観。全部を好きだったから、だから谷ケ崎さんを好きになれた。そのことを、ずっとメタではあるけど忘れずにいたい。
これはわたしのために、という一点でしかないけれど。あのひとが弟で、よかったと思う。わたしがあなたを見つけられたから。だから弟でよかったと思う。
そしてあのひともきっと、弟でよかったのだと、今、彼の思い出に触れて長く経ってからたまに思うようになった。
あのひとが過去、おにいさまと、もうひとり、あの人を大切にするお兄ちゃんみたいな存在に曲がりなりにも守られてきた、その事実でわたしも救われた。
彼が弟である足跡を振り返って、わたしが よかったあ、と胸を撫で下ろすたび、あのひとの過去も、温もるように、今は祈ることしか出来ないけれど。いつか、谷ケ崎兄弟、ふたりのことを真っ直ぐに、想えるようになりたいと今は思う。
ふたりが歩いてきた道のりを、わたしは今から暖めることは当然出来なくて、寄り添うことも、照らすことも、想うことでどうにかすることも出来なくて、ふたりのことだって、どうにも出来ない。どうにかしたいと思うのは間違いかもしれない。どうにも出来ないし変えるべきでもない、変えられない過去について思いを巡らすのは無駄なことかもしれない。でも、でもいつも、彼の(まだお伝えはされてない)過去についてわたしが思うとき、こんなどうしようも無い迷いを抱えてしまうのは事実だった。
正直、
お兄様に、もっと谷ケ崎さんを大切にして欲しかった。それを埋めたくてそばにいたいと思った、という気持ちを、最近やっと言葉にできるようになった。押さえ込んでいた気持ちに気がついた。
__谷ケ崎さんにとって、もう、不足なものなどひとつも無いと分かっている。
彼はしあわせになれる。そう、ちゃんと分かっている。
心配性すぎるから、何もかもから谷ケ崎さんを守るための完璧な傘と盾になりたいし、どんなときもあなたが真っ先に戦っていくための剣になりたいと願うけど、それが無駄なのだとちゃんと分かっている。
あのひとはもう、家族より大事な存在をそばにきちんと結んで、未来のほうに手をひかれて、ちゃんと歩いていける。ふらふらと揺れることも無く自由を求めて飛び立てる、何処までも行けるひとになった。その場面をちゃんと目にして、だいじょうぶだよ、とちゃんと安心させてもらえた。
だからわたしが思いを何もかもに馳せて、心配して、どんな言葉をあげようか、こんな言葉ならさみしいか、と考えあぐねて苦しむ必要などないし、ましてや彼のおこころを探ってまでもだもだと、彼の前での表情なんかに気を配ったりもしなくていいのだと思う。そばにいて、彼に凭れているときは全部に安心ができるし、とうの彼は基本的にわたしの前ではことんと安心しきって眠っていることが多い。わたしたちはちゃんと傷つききった、これからは守られて生きていくし、安心の籠の中を生きていくんだとわかっている。悲しいことも嫌なことも人並み。規格外の暮らし方はもうしない。だいじょうぶでいたいから、だから絶対手を離さずにいる。そう決めた。この人で間違えたことなんてひとつも無い。でも、でもああ、本当に何もかもが心配!誰と話そうとどんな仕事をしようとわたしがどう心を振れさそうとぜんぶ今の彼にとってはなんでもないことと知っていて、そこに安心もしてるはずなのに、それでもどんなことにも不安を見つけてあわあわとしてしまう。疲れちゃうね、また今度話そう。
選んでもらったのだからたぶんもう、いろんな呪いから自分を引き剥がしてやるのがわたしのやることなんだと分かる。いい加減自分のために動けよ、と思うぐらいわたしはわたしのために頑張るのが下手だ。そのうち怒られたいと思う。
わたしは生きるのが下手で、そんなのはもうとうに分かったから、彼にもっと迷惑をかけて手こずらせて、ため息をつかれて、そうやって正されて生きていきたいと思っている。それに、そうやってお兄ちゃんみたいなやりかたで愛させてあげたい。そうやって、いつか妹みたいに愛されたい。生まれてしまったからできないことをあのひととやりたい。
できないこと、できなかったこと、がんばってもうまくいかなかったこと(例えば、生きるとかね)、全部谷ケ崎さんが叱ったり、見ていてくれたら出来るよ。そうやって愛を傾けてくれる姿勢が好き、はじめて好きになったすこし年上の人、だから頼って甘えて支えられたいと今は強く思う。
不足ないあの人に、もっとしあわせを、と望むことが、彼を頼ってしまうことに繋がるのを今はあまりよしと思えない。おにいさまのこともうまく掴みきれないわたしが、何から谷ケ崎さんを守ることも出来ずそばにいて、頼ってあげることでしか彼を立たせてあげられないことが歯がゆいと思う。
もっといっぱいしてあげたいのに、全部に寄り添って分かりたいのに、引っ張っていきたいし先回りしてぜんぶ代わりに傷つきたいのに、それをしないことが、彼の現時点おそらくの安定なことが今はさみしい。
ただ、ただそばにいるということは、難しいと思う。生き急ぎたいわけではないけれど、ゆっくり同じペースで歩くということが出来なくてごめんね、と時々思ってしまう。
あのひとが強くやさしく幸せな方であるばかりにやきもきしてしまう。こんな、しあわせな悩みにいつも囚われている。