眼鏡を新調した。
今日ついさっきまで使っていた眼鏡は10年以上というよりは20年に少し足りないと言うくらいがちょうどいいほどずっと長いこと使っていて、いよいよもって鼻宛部分(部品として独立しておらず、フレームと一体型のタイプ)やレンズのコーティングがはげていたりする。目も当てられなくはないがひとに見せるものでもない、という状態であった。
視力も毎年の健康診断で1.3とか出していたはずなのだけど(眼鏡をかけたままやる視力検査)眼鏡屋さんで測ってもらったら1.0かろうじて見えてますか…?くらいの弱さで我がことながら「おいおいおいだいぶ話が違うな……」とフィクションでしか出ないようなことを思ったりした。
いろいろあって新しい眼鏡がいま手元にある。かけてみると今までぼんやりとしか把握していなかった遠くの家々がくっきりとその輪郭をあらわして、我こそは誰かの家であるぞと主張し、その手前の芸術的な集まりを形成している電線たちが静かに内なるエネルギーを秘めており、見知った道を歩くだけでいままで見えていなかったがために処理されていなかったものごとたちを脳がいちいち受け止めては処理してを繰り返すせいでお腹が空く。
これはけっして眼鏡を新調しただけのことにとどまらないな、と珍しく真面目なことを思った。俺たちはずいぶんこうしていろんなことを見えないままにして、あるいはぼんやりと見えているだけの詳細不明な輪郭だけで世界を受け流している部分が多々あって、そりゃ人間のキャパシティはこの世のすべてに対応しないからそれはそれで正しい在り方だし、俺はすべてを見ろと言われてもできない。
ふと顔を上げたとき、そこにどれだけのものが鮮明に見えるだろうか。どれだけのことを、俺はこの鮮明さで受け止められているだろうか。受け止めなくてもいい、そこにそういうものがあると気づけるだろうか。
物体として目の前にあるだけではないことも、きっとそうだなと思いながら、今日ついさっきまで使っていた20年に少し足りない付き合いの、まだ構造としては全然壊れていない古ぼけた眼鏡を防災リュックに入れた。