自己肯定と期待値

裏参道
·

なんとなく最近、ここ数年くらいのぼんやりとした最近の範囲でなんとなく自分の顔を好きになった。正確に言えば嫌いではなくなった。

昔の自分の姿形といえば大して顔の造形もよくなければ姿勢も悪く、猫背で、背の高さも標準値、あらゆる要素が重なっての太い肉体を嫌っていた。就職して一時期なぜか過去最低まで痩せたことがあるが、いま思えば一人暮らしを始めた時期と重なるのでおそらく食事面をおろそかにしたりした代償で、その証拠に長らくいまに至るまで基礎代謝が低く少し多く食べたくらいですぐに体脂肪として変換される反応が染み付いている。

が、なぜだか最近の自分の顔(と、姿。姿の方はまだ全体的に余地があるなあと思うけれど、不可抗力として鏡で見ることになる姿が許容範囲になった)が好きになった。嫌いではなくなった。まったく関係ない他人事として「いうてけっこう可愛い顔じゃん」くらいのふんわりした、ちょうど良い無関心の距離感。

これはおそらく俺自身が年齢を重ねて、社会とかいう他人のかたまりから無意識かつ無遠慮に、そしてただ一人では覆らないような根強い刷り込みとして押し付けられる期待の範囲を超えたことにも関係があると思う。

まだ若いんだから、とか、好きな人いないのとか、付き合うだとか結婚して子供を、とか、そいういうこと。母は早いうち、俺がまだ自分をこんなに好きではなく身なりに気を使わないでいたうちから「何事も経験してみればわかるのだから、一回はやってみなさい。結婚だって、嫌なら離婚できるのよ」とやや不思議な価値観でずっと俺に寄り添っていた。

俺は無邪気にそれを信じていたし、妊娠・出産というプロセスが可能な内臓を持って生まれているので(この文章やSNS上での一人称が『俺』なのはSNS上などに発露させる用の人格の一人称がそうだからというだけです)可能性ばかりはあるのだが、二十代半ばごろから「おや、もしかして俺は他人のことをアガペ以外の愛で好きにならないのでは………?」と感じ、そしてそこから十年以上経ったいまでは確信に変わっている。

俺は恋愛感情で、ひいては性愛で他人を好きにならない。他人というか、自分も含めた人間という生き物をそういう感情で扱えない。全然わかんない。ないものはないので、本当にわからない。想像の限界で行き着く結論が「そんなでかい勝手な期待を他人に押し付ける……?許されるのか……?」というレベルでわかっていない。親愛の情がなにかどうにかなればおそらく可能な範囲にある、ような気がするが試す相手もいないので未知の領域のままでいる。

こんな中途半端で不明で未知のままでもいいよ、と言えるのは自己肯定以外になにがあるのだろう。昨今よく聞く自己肯定感、自分が自分のままでいていいという単純でとても大切な肯定。

判断とは比較であり、比較とは自分の身で成り立たないので、どうしたってなにかを見出そうとすればある程度は他人のかたまりである社会とかいう範囲を参照するしかない。だからそこに広く長く根強く自分とまったく違う、想像もできない価値観がずっとうっすらと漂っていると本当に苦しい。ずっと酸素が薄いなかで必死に呼吸をしている。他人はそんなに苦しくないのに、俺はまず呼吸に他人より持てる体力を割かねばならない。環境が変わるまで。

たぶんずっとそうだったのだ、意識せずとも。だからいまのこの、同じような人間が他にもいるという事実が観測できる現状と、年齢を重ねて社会とかいう他人のかたまりから無意識で無遠慮に押し付けられる期待の範囲から抜け出せたいま、俺は俺のことをほんの少しだけ好きになり、何の期待もしないほどよい無関心で「お、思ったより可愛い顔してんじゃん」と思えるようになった。

本当はこんな社会からの期待値がなくなったから自分を肯定できる、なんてことない方がいいのだけれど。もっと早く、もっと適切に、もっと自然に自分のことを肯定できていたらたぶんもうちょっとなにかあったのだろうなと思うけれど、それはなかったことなので、まあいいか。地面ばっかり睨みつけて顔に暗い影ばっかり落として何もかもから目を向けていたころに比べればずっと呼吸がしやすい。

今日も俺はちょっとだけそこそこ普通に可愛いです。

@ura310
ほのやかな文章。