宮台 真司『終わりなき日常を生きろ: オウム完全克服マニュアル』

ure
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公開:2026/1/7

宮台真司さんの『終わりなき日常を生きろ: オウム完全克服マニュアル』を読んだ。

1990年代のはじめに流行った新興宗教について書かれた本。

当時36歳だった著者は、女子高生がほんとうに好きみたいで「ブルセラ」という単語がすごい頻度で出てくる。とまどう。

豊かになった社会で、終わりなき日常(進歩も破滅もない世界)を生きることのキツさについて書かれているのはよかった。

終わりなき日常の中では、自分の不幸を外的要因(社会)のせいにすることができない。だからなにかに失敗したとき、自分を責めることになる。

そういう人たちが「日常の終わらなさ」を忘れて生きようとすれば、いろいろな物語や装置が必要となる。

そうしたニーズに応えて、80年代には『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』のような「核戦争後の共同性」をモチーフにした、終わらない日常からの自由を夢想させてくれる物語が登場した。

しかし、フィクションの中で充足を味わったとしても、現実には「フィクションに逃げ込んでいる自分」の姿がある。

そんな自分の姿までまるっと肯定してくれるものは、宗教か恋愛くらいしかなかった。

宗教も恋愛も、「全面的包括要求」に応えうるという点で、機能的に等価なのだ。自分はダメだと思っていると、宗教やセミナーが「そういうあなたでも救われます」と受け入れてくれる。同じように、恋愛すれば「そういう君が好きだったんだよ」「そういうあなたが好きなの」と受け入れてもらえる。

確かに、「核戦争後の共同性」を夢想するサブカルチャーも、「終わらない日常」からの逃げ道を与える。しかし、そこに「逃亡」している自分を肯定するメッセージを、全面的包括要求に応える形では──隣のおばさんが許してくれるのとは別の仕方では──決して与えてはくれないのである。

—『終わりなき日常を生きろ: オウム完全克服マニュアル』宮台真司 著

では、宗教にも恋愛にも頼れない人はどうすればいいのか。

その一つの答えは、「全部を肯定してくれる何か」を求めるのをやめ、まったりと生きることだという。

「永久に輝きを失った世界」のなかで、「将来にわたって輝くことのありえない自分」を抱えながら、そこそこ腐らずに「まったりと」生きていくこと。そんなふうに生きられる知恵を見つけることこそが、必要なのではないか。もしいま意識的な修行が必要だというなら、それは、「白くなり切れない自分を、白くしようと励む」修行ではなく、むしろ「白くなり切れない薄ぼけた自分を抱えたまま、それでも生きつづけられるようになる」ための修行なのだと思う。

—『終わりなき日常を生きろ: オウム完全克服マニュアル』宮台真司 著


まったりするためには、まず「退屈」と「不安」をなんとかする必要がある。

退屈になると、人は「何かに夢中になりたい」「何か意味のあることをしたい」と考えはじめる。不安やさみしさは、「今のままではいけない」という気持ちを生み出す。

そんなときに感じる「これだ!!」という感覚は、とても強く心をつかむ。

そういう性質を利用されると、お金をだまし取られたり、あぶない目にあったりするので気をつけたい。

@ure
どうぞごゆっくり