『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』

ure
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東畑 開人さんの『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』を読んだ。

こころのケアとははじめるものではなくて、はじまってしまうものである。

(中略)

ある日突然、身近な人の具合が悪くなる。

子どもが学校に行けなくなる。パートナーが夜眠れなくなる。老いた親が離婚すると言い出す。部下が会社に来なくなる。あるいは、友人から「もう死んでしまいたい」と連絡が来る。 突如として、暗雲が立ち込める。

どうしてそうなったのか、なにをすればいいのか、これからどうなるのか、全然わからない。 でも、雨が降っていて、彼らのこころがびしょ濡れになっていることだけはわかります。

そのとき、あなたは急遽予定を変更せざるをえません。とにもかくにも、なんらかのこころのケアをはじめなくちゃいけなくなる。

傍にいるのがあなただったからです。その人があなたの大事な人であったからです。

ある日突然、あなたは身近な人に巻き込まれて、雨の中を一緒に歩むことになってしまう。

こういうことがどんな人の身の上にも起こります。

人生には、こころのケアがはじまってしまうときがある。

ですから、突然の雨に降られている方々に向けて、あるいは長雨の中で日々を過ごしておられる方々のために、心理学の授業をしてみようと思います。

雨が降ったら、傘をさすように、こころのケアがはじまったら、心理学が役に立つと思うからです。

—『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』東畑 開人 著

家族や友人、同僚のような身近な人が落ち込んでいるときに、どうしたらいいのかを教えてくれる本。

この本には「こういうときにはこうしたらいいよ」というようなことは、書かれていない。

「大丈夫だよ、元気だして」といったシンプルな励ましで元気になれるのは、元気なときだけ。具合が悪いときは、励ましてもらっているのに、大丈夫だと思えなかったり、元気がだせないことが申し訳なくなったりする。

そういう "雨の日" には「どのように対処するか」ではなく、「どう理解するか」が大事になる。何をすると傷ついてしまい、何をしない方がいいのか「わかる」必要がある。


雨の日のこころを「わかる」ために役立つ補助線が3つある。

「意識と無意識」「エロスとタナトス(?)」「PS ポジションと D ポジション(??)」

「意識と無意識」については、知ってる〜と思ってたらぜんぜんわかってなかった。

自分が「無意識」だと思っていた、ちゃんと考えてみれば気づけるようなこころは「前意識」というらしい。

「無意識」は、自分の中にはあってはいけないと禁止している自分のこと。たとえば、自分に子供がいたとして、その子供のことをものすごく愛していたとして、それでも「この子が死んでくれないかな」と思っている自分もいる。気づいてしまったらぞっとするような、目を向けられないもの。

考えたらまずいから、心の暗闇に押しやっていることなので「本当はこう思ってるよね」と言い当てたりはせず、「わかる」ためのヒントとして使う。

「エロスとタナトス」という厨二病心がうずく言葉について。シンプルに言うと「エロス」は他者とつながろうとする力、「タナトス」は他人からひきこもろうとする力のこと。

この補助線があると「あなたには私のことは絶対にわからない!」という強い言葉の裏に「私のことをわかってよ(エロス)」という思いが隠れているのに気づけたり、メールの返信がなくても「今は、つながりを断ち切ろうとしている時期(タナトス)なんだ」とその時期に耐えることができたりするらしい。

そして、タナトスに向き合うのは、ケアする人をケアすることが必要になるレベルでつらいことらしい。怒りをぶつけてくるのは、わかってくれるんじゃないかという希望があるからで、無視されるほうが深刻、とある。どっちも地獄じゃないか…

最後の「PS ポジションと D ポジション」について。章の中でもっともためになった考え方だった。

PS ポジションは、こころがひどく追い詰められているときのモード。D ポジションは、心に余裕のあるときのモード。

「太郎さんは PS ポジションの人で花子さんは D ポジションの人」というように、ヒト単位での区分けはしない。

人には追い詰められている(PS)ときもあれば、余裕がある(D)ときもある。だから、今は PS なのか D なのか、繊細に見分けることが必要になる。

PS と D の名称の由来や理論については、本の中でとてもわかりやすく説明されていて、文章もおもしろい。恋や創作や恐怖が PS のもとになるというのもわかる。

また、自分の中にある罪悪感がケアにつながっている、ということが書かれていて、すこし心が軽くなった(たくさんやらかしているため…)

たとえば、教師のことを極悪人だと思って「死ね、ジジイ!」と言っていたのだけど、実は自分のことをとても心配してくれていたとわかったときの後悔の感じです。その先生にはいろいろと問題もあったけど、でも一応俺のことを思ってうるさいこと言ってくれてたんだなと気づくと、胸が痛いですよね。

Dポジションの「うつ」にはそういう意味もあります。悪いことをしちゃったという罪悪感です。

このチクンとした胸の痛みが貴重なんです。

思いやりが生まれているからです。悪いことしちゃった、と思えるのは、相手には相手の事情や思いがあったとわかるからで、Dポジションになってはじめて、僕らは他者の気持ちや境遇についてちゃんと考えることができます。

すると、自然と償いをしたくなります。相手を傷つけてしまったことについて、何とかやり直そうとし始める。

ここにケアという営みのはじまりがあります。

PSポジションのときにはまだケアができなくて(自分のことで必死なので)、Dポジションになるとケアができるようになる。

—『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』東畑 開人 著

ここまではまだ本の前半で、ここからさらに具体的なケアの話になっていく。

相手のことを心から大切に思っていなければできないようなことばかりで、読んでいてウッとなる。実際に子育てや介護をしている人に寄り添って書かれた本だなあと思う。

わたし自身はいま、だれかの世話に追われているわけではないのだけれど、ケアがはじまってしまったら、この本に書かれていることが役にたつと思う。

いつでも傘をさせるようにしておきたい。

@ure
どうぞごゆっくり