國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読んだ。
難しいのに読みやすくて助かる。とくに浪費と消費の違いについての考察がおもしろかった。
浪費には限界があり、消費には限界がないという。
どれだけおいしい食べ物でも、身体的な限界を超えて食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。浪費は満足してそこでストップする。
それに比べて、消費は満たされることがない。なぜかというと、消費の対象が物ではないから。
たとえば、SNS で話題になったお店に人々が殺到する。なぜ殺到するのかというと、だれかに「あのお店に行ったよ」と言うため。
このとき消費者は、お店での体験ではなく「あのお店に行った」という概念を買っている。つまり、物ではなく情報を受け取っている。
情報は満足をもたらさないから、満足を求めてさらに新しい消費を行うことになる。情報には終わりがないから、消費は無限に続く。
映画『ファイト・クラブ』の解説もおもしろかった。現実感の喪失に苦しむビジネスマンの話。
彼が体現しているのは、暇で退屈しているのでも、暇だが退屈していないのでも、暇もなく退屈もしていないのでもない、四つ目の有り様、暇はないが退屈している人間の姿である。
この暇なき退屈を生きる彼は、それをブランド品の消費という典型的な消費人間の行動によってやり過ごそうとしている。しかし、やり過ごすことができない。ボードリヤールが言ったように、消費には限界がないからだ。彼は消費はしていても、浪費はしていないのである。
—『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 著
人は「楽しくない」と思ったとき、興奮を求める。殴り合うのは、苦しむことが彼に生きているという実感を与えるから。
退屈しているとき、人は「楽しくない」と思っている。だから退屈の反対は楽しさだと思っている。しかし違うのだ。退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい。だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。
—『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 著
この映画、話が理解できなくて最後まで観られなかったのだけど、再チャレンジしてみよう。