帯広旅行のもう一つの目的は、懇意にしてるライターさんのお家に行くことで。1頭の馬と2匹の猫と共に暮らすその家は、小さいのにとても賑やかだった。
馬や猫と人間は、完全には分かり合うことなんてできない。対話ができないのだから。でも確かに生きている、人間とは異なる別個体。だからこそ適切な距離感のまま生きていけるのかもしれない。これが人間同士だとそうはいかなくて、「会話」ができてしまうぶん、時に「他人」であることを忘れ「分かり合える」と思ってしまう。
去年まで、実家には猫がいた。僕が中学生だったときに拾われてきたその猫は「キイロ」という名前で「キー」と呼ばれていた。記憶ではずいぶんと懐かれていたはずなのに、僕が社会人になって実家を出てからは、たまに帰ってもよそ者のような扱いしかしてくれない猫で。それはそれでかわいい奴だなと思っていた。
猫という生き物の「得体のしれなさ」が好きだった。帰ってくると玄関まで迎えに来てくれて、ゴロンと寝転がり、お腹を見せてくる。「お腹を触ってほしい」のかと思い撫でていると5秒くらいで飽きて廊下の先まで勝手に歩いていってしまう。かと思えば立ち止まり、こっちを振り向き「みゃあ」と鳴く。「ついて来い」という意味かと思い従うと、リビングに入った途端、猫にしか入れないような隙間に隠れて出てこない。正直、何を考えているのか分からないことばかりで、性格だって勝手にこんな性格と思ってただけで本当のことは分からなかった。心底、不思議だなあと思っていた。家の中に「何を考えているか分からない」生き物が存在することに。一緒に暮らせていたことに。
そんな猫が寝ている姿が、僕にとって「生命」の象徴でもあった。呼吸によって皮膚が上下する小さな体。近づき耳を澄ますと聴こえる鼓動。目の前の生き物は確かに生きているんだ、といつも新鮮に驚いていた。猫と暮らす日々は、得体のしれない他人と暮らすような感覚だった。それなのに、なぜだか嫌ではなかった。
帯広から世田谷に帰ってきて、また動物と暮らすのも悪くないよなあと思いながら町を歩く。それならやっぱり猫がいいし、けれども「猫と暮らす」ことは僕にとって人生の「あがり」を意味するもので。一人で生きていくか、また誰かと生きていくか、それを決めたときにしか選べないなあと思う。なんてことを思いながら歩いていると、ボロ市通りを猫が横切り、それを横目で見ながら進むと今度は別の道からネズミが飛び出してきた。トムとジェリーじゃん。と思ったのは家に着いてからなのだけど。