思考とタバスコ納豆

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公開:2024/11/20

2024/11/18

 眠りに落ちるとき、「脳みそが外に流れ出るみたいだな」と感じた。つまりは意識が流れ出て溶けて自我のない存在になるということで、「泥のように眠る」はやはりいい比喩なんだなあ、と思った。

2024/11/19

 納豆にタバスコを入れるのにはまっている。はまっていると言っても、冷蔵庫の納豆がなくなってしまったので2回しかやっていない。本当はもっと食べたい。

 小泉武夫『くさい食べもの大全』を読んでいると、塩辛や納豆が食べたくなる。でも、納豆を単品で食べると少し塩辛く感じるな、と思っていた。どうにかして納豆をおつまみとして食べたい。そこでタバスコ納豆を試したところ、そこまで塩気を感じず、おつまみとしてしっくりきたのだ。

 作り方は、納豆の付属のタレをかけたあと、タバスコをじゃばじゃばじゃばとかけて混ぜる。タバスコの辛味と酸味がいい感じに納豆の匂いをマスキングしてくれて、いい感じの旨味が残る。それをご飯にかけたり、そのままつまんだりしている。妙にコクがあるのに爽やかな味わいなのが楽しい。

2024/11/20

 品田遊『納税、のち、ヘラクレスメス』を読み終える。人の日記は、本を読む気持ちではないときでもすっと入ってくる文章が多い。読みやすさゆえに、本の中のおじやみたいなものだと思っている。

 人の日記、とくに出版されているものは、日々がコンテンツ化していくような危うさがある。嘘を混ぜてわざとコンテンツにしている場合を除き、読んでいて「この人の日々を読むことにより消費していいのだろうか」と不安になるときがある。そういうときに、日記を書いている張本人から「何でもかんでも書いているわけではない」という声明があると、妙に安心してしまう。

 日記を書いている人にも日記に書かない大切なことがあるし、秘密は悪いことではないし、未消化の出来事を記す必要なんてない。日常の些細な出来事を書き記しているのに、そのなかに書いていないことがあるというのが、生活を大切に扱えている気がして心地よく感じる。読んでいるこちらとしても安堵できる。日記は身を削る必要がない書きものなのかもしれない。

 そして物語を取り込むことを最近は消費と呼ぶことがあるけれど、読むこと自体が消費にそのまま繋がるわけでもない。日記を含め物語は、私たちの日常に寄り添ってくれるものだから、消えて費やされるものではない。

@urushino_nagi
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