今尾恵介『地名の社会学』と山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』を読んだ。
今尾恵介『地名の社会学』
今尾恵介『地名の社会学』は、地名の語源からその変遷、市町村名の合併などにともない地名が消えていく様子まで順を追って説明していく本。歴史的地名が瑞祥地名(窪→久保のように音は同じでいい文字に置き換えたり、単純に良い単語を名前にしたりする)など無難な名前に置き換えられるのは確かに歴史的にも損失だし、単調な世界になっていく気がする。
1番面白かったのは最初に出てくる、土地の自然的な特徴からの名付けについて。赤羽という地名は赤ハニ(ハネ)から来ていて、ハニというのは埴輪の埴のこと、つまり粘土質の土を表す言葉で、赤羽は赤い粘土質の土である関東ローム層を指すという説。
不老川(としとらずがわ)という川も出てきて、由来が気になったので調べた。どうやら冬になると枯れる川で、歳をとりたくないから枯れるのだろうということで名前がついたらしい。他にも古刹など知らない単語が出てきて面白かった。古い寺のことを指すらしい。特産をアピールする言葉が付け加えられている駅名の例で「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」というものがあった。いくらなんでも長すぎる!と面白くなってしまった。少し前まで日本一長い駅名だったらしい。今は「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅」が最長とのこと。でも「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」の方が無駄があって、キャッチーで好きだ。使う方や地図表記としては不便かもしれないけれど……。
植物や自然を利用した命名にはすごく興味を惹かれたけれど、社会ができてからの変遷についてはあまり興味を惹かれなかった。人間が何を考えているかという思考の部分に興味があって、人間自身、ひいては織りなされる歴史や社会に全く興味がないことを改めて実感した。
山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』
山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』は、ゴリラの研究者とシジュウカラの研究者による、言語についての対談形式の本。まえがきにある「そうした生活を続けるなかで、シジュウカラが何を考え、どのように世界を見ているのか、想像できるようになっていた。今では空を飛ぶタカも地を這うヘビもシジュウカラに教えてもらう。鳴き声を聞くだけで、瞬時に意味が飛び込んでくるのである。」という文章が好き。鳥の言葉を理解できるなんて!という憧れがある。別種の言葉を理解できる世界は、脳が拡張されるような気持ちになる。
作中に出てきたエピソードとしては、蜂の巣を人に教えておこぼれにあずかる、人とのコミュニケーションが成立するノドグロミツオシエについて、ルー語からヒントを得た、シジュウカラ語とコガラ語の単語同士を入れ替えてもシジュウカラが反応することについて、26年ぶりに会ったゴリラが山極寿一さんのことを覚えていた話が特に面白かった。そのときの話が『野生のゴリラと再会する:26年前のわたしを覚えていたタイタスの物語』となっているらしいので読みたい。途中で掲載されているクチヒゲタマリンの写真がかわいらしかったこと、ニワシドリの巣が話題に出てきたので調べたところ、ものすごく綺麗だったことも良かった。
どの動物に思考があるのかという話題について、参考文献に数年積んでる本『魚にも自分がわかる:動物認知研究の最先端』が出てきてちょっとショックだった。積んでてごめん…………。これを機に読みたい。
対談は最終的に言語の地位が高くなりすぎた人間社会に対する憂いへと向かう。言葉の地位が極端に高くなることで、言葉が切り捨ててしまう感情の部分や、対面で心を通わす言葉以外のコミュニケーションがおざなりにされていること、また言葉により物の見え方・解釈が規定化され、世界をあるがままに見ることができなくなったことにより、いずれ言語化できないもの(感情や体験)を認識できなくなるのでは?という危惧について語られていた。
この部分には本当にそうかな?と疑いを持った。確かに現代は効率重視の社会だし、AIによる合理化も進んでいるけれど、それは社会の動きであって、言葉の動きではないように感じる。切り捨てられてしまう部分だからこそ、感情の細かな動きを言葉は掬い上げようとしていると、わたしは考えている。