この春、知り合いの三回忌を迎えた。
その人とは例えて言うなら、高校で同じ組で、そこそこ仲良しメンバーの数人のうちの1人みたいな関係だった。「そこそこ仲良し」だから特別に親しいメンバーではなくて、でも毎日何となく机を並べて一緒にお昼を食べたりするような。でも下校したら特に一緒にどこかに出掛けたりとかする感じでもない、くらいの親しさ。
その人はご家族内でも夫婦間でも恐らくたくさんの問題があって、つらい日々を過ごしていたことはよく知っている。その人は生きるのがうまくいかなくて、自分もあまりうまく……別の言葉に言い換えると、優しく接することができなかったことも多い、実は。
ただ家族間・夫婦間の問題に他人がどこまで踏み込めるのか、踏み込むべきなのか、そしてどうやったら踏み込めるのか、自分にはまったく答えが出なかった。
その人自身も公的なサポート機関や行政などに助けを求めたりしていたけれども、もうその時点でかなり困難な状況に陥っていたのかもしれず、その人が求めていたような何かは得られなかったようだ、結果論だけど。
自分がその人の問題に対して何もできなかったという苦い思いと、でもじゃあ何かできたのだろうかという問いかけを、答えの出ない問いかけを、その人のことを思うたびにしてしまうけれど、それ以上でもそれ以下でもなかった、薄情に聞こえるかもしれないけど。
耳を疑う知らせを聞いてから二年。
二年経って。
自分はやっとその人を思って涙を流すことができた。
それは何の涙だろう。後悔。無念。同情。
どれでもない、何でもない。
ただその人を思って泣いた。やっと泣けた。
ずっと生きていてほしかったとか、生きていればまた笑い合える日も来るさとか、そういうことでもない。
その人はお墓もない。その人が大好きだった青い海に還っていったから。だから手を合わせる墓標すらないけれど、この春は海に行ったらその人のことを思い出すんだ。
きっとその人は「今更」なんて思わないだろう。他人から愛情とか思いやりとかを受け取るのがとても下手な人だったから、逆に突っ返すこともないだろうし、熨斗や名目なんて多分いらない、それもこっちの勝手な思い込みだけど。ただ海を見た時にその人を思うだけ。それができてようやく、ボロボロだったかもしれない肉体から自由になれたその人へのはなむけになるような気がしている。