夏は嫌いだ。みじかい生命の終わりをかき消すように鳴く蝉が昭和史の目の前で死んだ。空を見あげても、地面を見ても眩しい。どこかしこも光り輝いている。だれかからの贈り物のネックレスと肌の隙間にかいた汗が妙に冷たいのが不愉快だった。ダイヤモンドが視界の端で喚く。ボタンが、暑い空気を取り込む肺の収縮通りに動いている。
「ちゃんとしてよ」息苦しいのは、頭痛がするのは、視界がぶれるのは、夏のせいか。「昭和史」「あきらめなさい」「あばずれ」蟻にばらばらに解体されている蝉が昭和史に語りかける。「あれだけ払ってそんなものなの」うるさい。「尻軽女」「昭和史」黙れ。「ダイヤモンドは体と等価交換?」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」「死ね」
体調不良すら曖昧な感覚のからだが揺れている。顔を傷つけてはいけないと咄嗟に身前にやった手がいちばん最初に地面に付いた。そして胴体、脚。
倒れたと気付いたときには既にだれかに抱き起こされていた。ミケランジェロのピエタのような、ロマンチックな体制で起こされていることに笑いが込み上げる。不思議なことに痛くなかった。
「大丈夫ですか」
燃えて終わる花のような女だった。昭和史は「ええ」と答えることもできずにその女の顔を見つめていた。冷たい香水の匂いがした。ずいぶん昔に読んだふるい小説を思い出した。『お前は僕の宝物だ、僕が自分で見つけ出して研みがきをかけたダイヤモンドだ。だからお前を美しい女にするためなら、どんなものでも買ってやるよ。』
題名を思い出せないでいるうち、意識が夏の熱気に溶けた。映画めいた気絶だった。うつくしい女がうつくしい女に抱き起こされている、撒き散らされた宝石箱のようなようすも映画的であったし、昭和史が倒れたのが大病院の前であるということもおそろしく強運でご都合主義的だった。シナリオの存在を感じるほどに、奇跡的な出会いだった。
医師は長々と説明した。「昭和史さん、最近…その、全身整形をなさったそうですね。」「後遺症というわけではなく、手術による身体への負担が通常より長引いている状態です。」「あまり睡眠時間を取っていないのが原因だと思われます。」「もちろん、整形手術が失敗したというわけではありませんのでご安心ください。」「担当医の方はどうやらとても良い腕をお持ちのようです。」「大事をとって何日かは入院していただけますか」「治療といいましても、たいしたことではありませんが」「手続きはあちらの窓口で…」
話が濾過されて、昭和史の脳には何も残らない。医師から話を聞くのはあきらめて、医師の後ろに黙ったまま立つ女を眺めた。昭和史を助けた、あのしら骨の女はしべりあという名前だった。しべりあは昭和史の不躾な目線に大人しく、なにも思わないような笑みを返した。ただうつくしかった。
入院の手続きをしていると、書類を用意していた事務員が「よかったねえ」と話しかけてきた。怪訝な顔をする昭和史に乾いた手の老人は語る。担当看護婦がしべりあさんとは幸運だ。あのひとはとても優秀な看護婦だから安心するといいよ。患者にやさしくて、わたしら職員にもやさしいと来た。しべりあさんの受け持ちはどうやら重病患者が多いらしくてね。何ヶ月かにいちど受け持ち患者の誰かが死ぬんだ。そのたびのあのひとの悲しみようはこっちまで悲しくなってくるほどだよ。死に際の人間の手をあんなにしっかり握ってあげるのはしべりあさんか女神さまかのどちらかしかいない。息子の嫁に、いや、わたしがあと数十歳若かったらねえ…
同じ部屋にいて、この男と同じ空気を吸っていると思うとひどく自分が汚く感じる。雲のような適当な相槌を打つうちに老人は飽きたのか、仕事に徹し始めた。しみだらけの顔が瞬きごとに歪むのを見ていると、気持ちが悪くて頭痛もしてきた。そのことを伝えるべきか、伝えずにいるかで迷っている間に入院手続きは終わってしまっている。昭和史の心のこもっていない感謝に、老人は歪んだ醜い顔をさらに見にくいものとしていた。どうやらそれは笑顔だった。
病室は案外清潔で、聞けばこの病棟は新設されたものであるらしい。歴史ある大病院ゆえの診察室の古臭さに辟易としていた昭和史にはありがたいことだった。それに、全室が個室らしい。昭和史を新病棟に入れたのはきっとあの医師の采配だろう。全身を作り替える前ではありえなかった、肉色が透けた好意に今は感謝した。
ベッド脇の椅子に荷物を置いた。だれも椅子に座れなくても問題はなにもない。だれかが昭和史の見舞いにくることなどありえないからだ。開け放した窓から夏の湿った空気が流れ込んでくる。顔をしかめながら窓をしめると、意外に音が大きく鳴った。膨らんだ安っぽいカーテンが「もう寝たら」と話しかけてくる。「そうね」気が抜けて自分が疲弊していることがよくわかる。
「休まれてはいかがですか」
この女の声は、昭和史の幻聴と同じ声をしている。カーテンと同じ声で、同じことをこちらに勧めてくるしべりあはドアのこちら側に立っている。
「担当看護婦のしべりあと申します。昭和史さん、何かありましたら私にお申し付けくださいね。どうぞご遠慮なく。」「感謝するわ。ああ、それと先ほどはありがとう。」「いえ、当然のことです。それより、体調は悪化していませんか?とくにお変わりがなくとも、睡眠を取った方がよろしいかと思います。」「そうさせてもらうわ。具合は良いけれど、やっぱり疲れてはいるもの」
子どものころひどい喘息で入院した時以来、点滴はずいぶん久しぶりだった。手際よく作業を終わらせたしべりあは礼をして、病室から去っていった。
病院の清潔な匂い、それから独特のトラバーチン模様、どこからか漏れ聞こえるテレビの音。確かなものは、繋がれた点滴袋だけ。一滴一滴流れ落ちてからだの中に吸い込まれていき、血液と混ざったそれが心臓をつらぬくのを想像していると、自然な眠りが昭和史の手を取った。
夕方になるといつのまにか窓の外は静かになっていた。運ばれてきた病院食はどろどろしていて、味も色も薄い。無理やり飲み込んで、薬品めいた水を飲むとまた眠気が襲ってくる。浅い眠りと覚醒を繰り返しているうち、急激に目が覚めた。予感のようななにかが昭和史を激しく揺さぶっている。
人の気配を感じて瞼を開くとあの女、しべりあが昭和史の顔を覗き込んでいた。長いまつげはカーブを保っていたが、急激なカーブというわけではなく緩やかなカーブであった。それがしべりあの神聖さを引き下げている。普通、人はうつくしすぎるものにはうつくしいということしか感じないがその少し下がったまつげがしべりあを俗っぽく見せていた。
しべりあの眼球に映りこんだおのれが見えるほどの距離に、濃霧のように濁った思考が晴れていく。ものを考えられるようになったところで、理解が追いつかない。
「なぜ」やっとのことで絞り出したひとことに、しべりあは考えるように一瞬目をそらして、そして何事もなかったかのようにまた昭和史を見つめた。
「うふふ」
しべりあは笑った。やはり、うつくしい女だった。