自分がしあわせでないと、誰かのしあわせを喜べない
これは本当だな。ただしこの場合の「誰か」というのは、見ず知らずの人ではなくて、自分に近い「誰か」だ。自分の中の存在が大きければ大きいほど、親身になる。まるで自分のことのように思えて喜び悲しめる。なのに自分がしあわせでない時、「誰か」のしあわせを頭では理解できても心から共感できない。そんなとき、自分がみじめで醜くて、なんて嫌な人間なんだろうって思う。
わたしのしあわせは、わたしが大切に思っている人たちのしあわせも含んでいて、だとしたら「誰か」のしあわせはわたしのしあわせであるはずなのに。これはどういうことなんだろう。
わたしのふしあわせが「誰か」から来ているとき、そうなるのかもしれない。ならばそれは受け止めるしかない。「誰か」がしあわせであることが一番望ましい。その人のことを大切だと思えるのなら、時間がかかってもいつかわたしのしあわせになってくれるだろう。そうであってほしい。
わたし→「誰か」への一方通行、全部わたしの一喜一憂、自己満足の世界。
そうなのかもしれないな。