子供たちには留守番してもらい、妻とふたりで東京都美術館で開催中の表題の展覧会に足を運んできた。「モネからアメリカへ」と副題にあり、対比されているのが画家と国家なのがはじめは奇妙だなと思った。しかし実際に鑑賞してみると、ウスター美術館が印象派絵画を収集した歴史そのものを表現しており、言葉通り、モネからアメリカへ、という展覧会だった。言葉の意味するところはぜひ展覧会で体験していただきたい。
興味深かったのは、ウスター美術館が絵画を買いつけるにあたり、フランスの画商や画家とやり取りした手紙や電報(レプリカ)が展示されていたところだ。理事会に諮るから支払いを待ってくれとか、なまなましいやり取りが記録されていた。
展覧会開催8日目(土曜日)の午後2時というタイミングということもあり、とにかく人が多かった。序盤のピサロやコローなど有名画家の作品の前には人が何重にも列を作って見ており、人の頭を鑑賞している気持ちになったほどだ。時間予約制だったが、時間ぴったりに行くのではなく、入館のタイミングを調整すればよかったなと思う。
モネの睡蓮については…まぁ連作であるし、ウスター美術館所蔵の睡蓮は確かに初めて見たけれど、もっと大きな作品も知っているので、「おお、これがウスター美術館蔵の睡蓮か…!」みたいな感動はほとんどなかった。タイミングかもしれないが、人だかりもまばらだったように思う。
ここまで大雑把に感想を書いてきたが、いわゆる「印象派」を期待するとこんな感じであろう。いわゆる「印象派」とはフランスで活躍したモネをはじめとする印象派の巨匠たち(ルノワールやシスレーら)のことで、彼らの作品はそれぞれ数点程度だ。
今回の展覧会のいちばんの見所は、おそらく「アメリカにも広がった印象派」であり、それだけの広がりを見せた「印象派とは何か」というところだと思う。
「日本人はなんでそんなに印象派が好きなの?」という嘲笑のような言葉を稀に耳にするが、まったくもって浅薄である。印象派は地域や文化や宗教を超え、単純に「素敵な絵だな」と思わせるだけの力があるのだ。イコンのようにモチーフの意味や聖書の逸話を知らなくとも、純粋に絵画として楽しめるのが印象派絵画のいいところだ。海辺のまぶしい陽光を、木立ちの中の木漏れ日を、夜の街明かりを、印象派の絵画は画家が感じたように絵にしていると感じられる。この絵はこういう解釈で見るべきとか、美術史上の云々とか、そういう前置きから解放され、「なんとなく好き」と思った絵を「なんとなく好き」と言えるのが印象派絵画のいいところではないかと思っている。
僕はこの展覧会を通して、これまでの印象派のイメージが少し変わった。
美術史に関する書籍を読むと、たいてい「●●派」「●●主義」という大きな括りで画家や当時の美術運動として線が引かれる。印象派はモネにはじまり、ルノワールやシスレー、バジールやピサロといった名だたる巨匠たちの起こした一大ムーブメントであると知られている。その後、新印象派やポスト印象派が現れ…というように、美術史上の美術運動の一つとして分類される。
それが、本展覧会を通して、「印象派」をひとつの美術運動としてひとまとまりに分類することの難しさ、つまりその多様性に触れられたように思う。
展覧会図録冒頭のクレア・ホイットナー氏(ウスター美術館学芸部長)の文章に「印象派という言葉は、まだ発祥地パリのイメージが強いものの、歴史的にも地理的にも広範囲の概念となっている」とあるように、ウスター美術館が所蔵する印象派絵画がフランス以外のさまざまな国や地域で描かれていることがそれを物語っている。
今まで散々見てきたと思っていた印象派絵画であったが、そうか、そういう見方もできたのか、とハッとさせられた。またひとつ、絵画を鑑賞する楽しみが増えた。