感想文: アルジャーノンに花束を

uta8a
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公開:2025/1/11

アルジャーノンに花束を〔新版〕 を読んだ。初めはヨルシカのアルジャーノンという曲を聴いて興味を持ったのがきっかけだった。確か友人がいい本だと言ったので購入を決めた記憶がある。ただ、最近は技術書ばかりで小説を読む気持ちが起きず、しばらく押入れの中に入れてあった。

ふとした会話で、僕は最近アニメや漫画といった手軽に受け取れるコンテンツばかりに偏っている。もっと贅沢に時間をかけて頑張って受け取るコンテンツを摂取していきたい。なんだか小説を読まなくなって心が貧しくなった気がする。そう思ったのでこの本を読み始めた。4時間くらい集中して読み切ってしまった。

この作品を読んでいて、初めは成長することで周囲の人が実はチャーリイ・ゴードンをからかっていたことに気づいて話が展開していくのかと思っていた。実際そうなのだけど、後半の知能が低下していく場面で自分の中に「理解していることは良いことだ」という感覚が前提のように横たわっていることに気がついた。

この作品はバッドエンドに映るだろうか。からかわれていることを知らないチャーリイ・ゴードンは不幸せだと思うのは僕の勝手な決めつけだ。個人の内部的な幸せ、不幸せというものは、一本のレールのようにいくつかの実績をアンロックすることで幸せに近づいていくように見えてしまうが、それは間違いだ。

理解していることは常に幸せをもたらすわけではない。理解している範囲が広がっていくこと、知能が増大していくことは、個人の幸せとは無関係だ。このことをはっきり悟ってから、本を読み終えた瞬間「悲しいなあ」と感情が沸き起こったのは、少なくともチャーリイ・ゴードン個人の幸せについては自分の決めつけのような感想だろうと思った。

この作品がハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、分からなくなってしまった。きっとどちらでもあるのだろう。

また、知能の高さによって人の反応が変わるシーンにおいて、以下のような分類ができそうだと感じた。

良い反応を示す知能レベル

フェイは知能が高い状態のチャーリイ・ゴードンに対して相性が良く、パン屋の仲間は知能が低い状態のチャーリイ・ゴードンに対して相性が良い。そしてアリス・キニアンはその中間と相性が良い。アリス・キニアンは知能が低い時のチャーリイ・ゴードンとも相性が良いが、真に互いが相性が良いのはわずかな部分しかない。

こうしてみると一番愛していたアリス・キニアンを「キニアン先生」と呼んでしまう終わりの方のシーンがだいぶつらい。アリス・キニアンと真に互いに理解できる知能レベルは一瞬しか存在しなかった。高くてもダメで、低くてもダメだった。

そういった点で、個人の幸せに知能は関係ない一方で、知能レベルの違いが人々の間に楔を打ち、心の距離も変えてしまうということが生々しく描かれているとも感じた。さらに、こうしてみると知能が高い・低いは人間同士の関わりにおいては高いからポジティブ、低いからネガティブという性質のものでもなく、単に理解できる範囲の広さを指して高い低いと言っているに過ぎないことも分かる。

僕はあんまり運動もできないし愛嬌もないので、頭の良さを磨かねばと小さな頃から思っていた。そのため知能を礎のように思っている。だからこの作品で知能が相対的なものであることを心から理解した時に、ちょっと怖いというか、足元から崩れていくような感覚も覚えた。真心がある頭の良さが大切とかそんな生やさしいものではない激しさを感じた。本を読み切った現段階では答えは出ていないので、ゆっくり考えてみようと思う。

アルジャーノンに花束を、おすすめです。